ジェイソン・ウィン・マカティア(Jason Wynne McAteer、1971年6月18日 - )は、イングランド・バーケンヘッドトレンメア出身の元サッカー選手、元アイルランド代表。ポジションは主にセントラル・ミッドフィルダーだが、時に右サイドハーフやサイドバックも務めた。
マカティアのキャリアにおいて、ボルトン・ワンダラーズFC、リヴァプールFC、ブラックバーン・ローヴァーズFC、サンダーランドAFC、トレンメア・ローヴァーズFCと5つのプロクラブを総移籍金900万ポンドで渡り歩き、代表ではアイルランド代表として50試合以上に出場。2007年6月12日に現役引退を表明した[2]。
経歴
クラブ
ボルトン・ワンダラーズ
ノン・リーグのマリンFCに所属時に、グラフィックデザインを学ぶ為にサッカーの奨学金でアメリカ合衆国の大学に進学し、アメリカに在住する叔父でボクサーのパットの支援でアメリカで一時期生活していた[3]。しかし、ビザの調整問題からイギリスに戻ると、フィットネスを維持する為にマリンFCで訓練に取り組み、同クラブのリザーブチームにおいてランカシャー州リーグの数試合に出場していた際に、ボルトン・ワンダラーズFCのフィル・ニール監督の目に留まったことで1週間のトライアル参加を打診され、ボルトンと契約することになった[3]。
1992年11月28日にバーデン・パークで行われたフットボールリーグ・ディビジョン2 (3部) のバーンリーFC戦 (4-0) 戦で初出場を飾り、以来、1992-93シーズンのリーグ戦において21試合に出場し、2位での2部昇格に貢献した。その後、1993-94シーズンはFAカップ準々決勝進出、1994-95シーズンはフットボールリーグカップで37年ぶりとなる決勝戦進出に貢献しており、リーグ戦においては、前者は中位に終わったが、後者では3位でのプレーオフに進出し、1995年5月29日にウェンブリー・スタジアムで行われたレディングFCとの決勝戦を勝利で収めてプレミアリーグ (1部) 昇格を果たした。なお、同試合においてマカティアは、2点を追いかける中、マイケル・ギルクス(英語版)をペナルティエリア内で後ろから倒してペナルティーキックを与える失態を犯す (GKキース・ブラナガン(英語版)のセーブで失点にならず) 一方、ドリブル突破でチーム3点目にして逆転弾の起点となった[4]。
リヴァプール
1994-95シーズン終了後にブラックバーン・ローヴァーズFC、アーセナルFC、リヴァプールFCからオファーをされ、1995年9月に移籍金450万ポンドでリヴァプールと契約し[5]、奇しくも昨季リーグカップ決勝戦が、対戦相手リヴァプールに対するトライアルの形となった[6]。ボルトン時代は、セントラル・ミッドフィルダーを主戦場としていたにもかかわらず、ロイ・エヴァンズ(英語版)監督が、中盤のコンビにジェイミー・レドナップとジョン・バーンズを据え、自身は右ウイングバックにコンバートされることになった[7] が、スティーヴ・マクマナマンと右サイドで良好な関係を築き[7]、それまで右サイドを務めていたロブ・ジョーンズ(英語版)を左サイドに追いやるプレーを見せ、一時は16試合無敗を記録する好調なチームを支え[8]、ノースウェスト・ダービーとなったマンチェスター・ユナイテッドFCとのFAカップ決勝戦にも右ウイングバックとして先発を務めた。しかし、同試合は守備に奔走していたことで攻撃にはなかなか参加出来ず、また、目の前で放たれたエリック・カントナの決勝点をジャンプするも、防げなかった[9]。
1996-97シーズンも主力としてプレーする。1997-98シーズンは、1998年1月下旬のブラックバーン戦において足を骨折[10] して約3ヶ月の離脱となったが、先発復帰した5月のウェストハム・ユナイテッドFC戦において2得点を挙げた[11]。1999年1月24日、マンチェスター・ユナイテッドとのFAカップ4回戦では、負傷したポール・インスとの交代で出場した際には、自身が渇望するセントラル・ミッドフィルダーでプレーすることになったが、これがリヴァプールで最後の試合となった[7]。
リヴァプールでの3シーズン半では、本職のセントラル・ミッドフィルダーと違い右ウイングバックや右サイドバックを主戦場とし、139試合6得点を記録する。また、当時は派手なライフスタイルで揶揄されたスパイス・ボーイズの一員[12] として、ディビッド・ジェームス、レドナップ、ロビー・ファウラー、マクマナマンらとタブロイドを賑わした。
ブラックバーン・ローヴァーズ
1998-99シーズンに就任したジェラール・ウリエ監督の構想外となった影響から、1999年1月下旬に移籍金400万ポンドでブラックバーン・ローヴァーズFCと4年半契約を締結する[13] も、低迷するチームを立て直す為に獲得を望んだブライアン・キッド監督の期待に応えられず、シーズン終了後のチャンピオンシップ (2部) に降格する。2000-01シーズンにプレミアリーグ帰還に貢献したが、1999-2000シーズン途中に就任したグレアム・スーネス監督就任以来、地位を確立するのに苦戦し[14]、2001-02シーズンには出場機会を得ることも難しくなっており、9月8日のサンダーランドAFC戦において交代出場するまでシーズン初出場は訪れなかった[15]。半ば構想外にあって、中盤に多くの負傷者が続出した為[16] に、22日のエヴァートンFC戦で初先発を務めて良いパフォーマンスを見せたが、状況は好転せずにいた[17]。
サンダーランド
2002 FIFAワールドカップが近付く中、代表での地位を考えた末に出場機会を最優先[18] し、2001年10月19日に移籍金100万ポンドでサンダーランドAFCと3年契約を締結する[19]。10月22日のミドルズブラFC戦での初出場[20] 以来、サイドハーフを定位置を掴み、負傷が相次ぐ際には本職のセントラル・ミッドフィルダーでもプレーし[21]、3月の古巣ボルトン戦において初得点を挙げる[22] と、イエローカードの累積警告による出場停止が明けた23日のサウサンプトンFC戦でも得点した[23]。
加入1季目の2001-02シーズンは主力として27試合に出場したが、翌2002-03シーズンは、2002年9月21日のニューカッスル・ユナイテッドFC戦以来、ヘルニアの問題でチームから離脱しており[24]、10月中旬に手術を受けたにもかかわらず、12月にヘルニアが再発した[25] ことで、2003年2月16日のFAカップでのワトフォードFC戦まで復帰に時間を要した[26]。しかし、復帰3試合目のフラムFC戦でハムストリングを負傷させ[27]、シーズン終了まで再離脱となり、公式戦出場10試合に終わる[28]。その間にチームは9連敗を記録する等でチャンピオンシップへと降格した。なお、同シーズンに行われた9月のマンチェスター・ユナイテッド戦において、ロイ・キーンとのボールの競り合いで激しくなり、ファウルを巡って口論に発展した際に、キーンの暴言に「次の本でそれを書け」と言い返し、キーンの自伝を揶揄するジェスチャーをすると、この行動に激怒したキーンから自身の後頭部を肘打ちをされることになり、論争の中心となった[29]。
2003-04シーズンは、代表で師事したミック・マッカーシー監督の下でマイケル・グレイ(英語版)の後任として主将に任命された[30] が、8月9日のノッティンガム・フォレストFC戦後にハムストリングに問題を抱えて離脱[31] し、復帰1試合目の9月13日のクリスタル・パレスFC戦中に悪化させて再離脱となった[32]。その後、11月に復帰の目処が立ったマカティアは、同月中旬のブラックバーンとのリザーブ戦でチームに復帰すると共に得点を挙げる好調さを見せる[32] と、トップチームでの復帰試合となった12月14日のウェストハム戦で得点を挙げ[33]、復帰3試合目のブラッドフォード・シティFC戦においても得点を挙げる[34] 等で負傷の影響を感じさせないパフォーマンスを披露した。同シーズンは、32歳という年齢を理由に、それまで務めてきたサイドハーフよりも、運動量が少ない本職のセントラル・ミッドフィルダーでのプレーを望んでおり[35]、その希望通り出場の多くを中央でプレー[36] し、プレーオフ進出に貢献する。そして、2004年5月17日のクリスタル・パレスとのプレーオフ準々決勝第2戦ではケヴィン・カイル(英語版)による先制点をクロスでアシストし、2-1の勝利に貢献したが、2戦合計4-4で行われたPK戦で外してしまい、チームは昇格は果たせなかった[37]。
トレンメア・ローヴァーズ
2003-04シーズン終了に伴い契約満了でブラックバーンを退団した後、チャンピオンシップのレスター・シティFCとシェフィールド・ユナイテッドFCからオファーが届くも、引退後に指導者への転身を考えていたマカティアは、ブライアン・リトル(英語版)監督の存在から、2004年7月20日にフットボールリーグ1 (3部)に所属する地元のトレンメア・ローヴァーズFCと2年契約を締結する[36]。加入初年度にもかかわらず、初出場となったプレシーズンでのラシン・サンタンデール戦から主将を任され[38]、プレーオフ進出に貢献したが、ハートルプールFCとの準々決勝第2戦において、頭を衝突したことで前半の早い段階で交代を余儀なくされ、チームとしてはPK戦で敗退となった[39]。
2005-06シーズンも主将としてプレーしつつ、10月からは選手兼任コーチに就任し[40]、成績不振によってリトル監督が解任された後は、監督代行として最終節のドンカスター・ローヴァーズFC戦で指揮を執ることになる[41]。同試合では、ジョン・マクマホン(英語版)コーチと共に実際に指揮を執り、後半開始から自身もプレーしているが、0-2で敗北した[42]。2006年6月29日に契約を1年延長し、2006-07シーズンに就任したロニー・ムーア(英語版)監督下でも選手兼任コーチとして残留することになった[43] が、シーズン終了後に契約延長されることはなく、2007年5月25日に退団することになる[44] と、6月12日に現役引退を発表した[2]。
2009年6月15日、リヴァプール時代の同僚のバーンズがトレンメアの監督に就任したことに伴い、アシスタントとして復帰する[45]。だが、チームは最初の11試合で僅か2勝にとどまり、リーグ最多となる26失点と低迷したことから、10月9日にバーンズ監督と共に解任された[46]。
代表
イングランドに生まれながらも祖父がアイルランド出身[47] だったことで、多くのイングランド生まれの選手と同様にジャッキー・チャールトン監督によってアイルランド代表に誘われる。同時期には、イングランド代表のジミー・アームフィールド(英語版)コーチからテリー・ヴェナブルズ監督が自身をイングランドB代表に招集する考えであると聞かされる[47] が、1994年3月23日にランズダウン・ロードでのロシア戦でアイルランド代表として初出場を飾った[48]。右サイドハーフの位置で、ロシア戦、オランダ戦と良いパフォーマンスを見せたことで、1994 FIFAワールドカップ直前に行われたボリビア戦に向けて招集され[49]、そのまま本大会のメンバー入りを果たすと、強豪イタリアを下した試合でもプレーした。
UEFA EURO 1996、1998 FIFAワールドカップ、UEFA EURO 2000と主要大会を3度逃したが、2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選のオランダ戦において決勝点を挙げる[50] 活躍等で2002 FIFAワールドカップ出場に大きく貢献する。本大会では、直前に行われたサンフレッチェ広島との親善試合で相手DFミシェル・パンセ・ビロングのタックルによって一時は靭帯損傷の疑いもあったが、打撲で済み[51]、1試合目のカメルーン戦に先発出場した[52]。大会後、負傷の影響から、2002年9月のUEFA EURO 2004予選のロシア戦を最後に代表から遠ざかっており、2004年2月のブラジル戦において一旦復帰をした[53] が、同年9月2日に代表引退を表明した[54]。
私生活
現役引退後は、様々な慈善試合に出場。また、ESPN Star SportsやリヴァプールFCの公式チャンネルLFC TVで解説を務める。2013年にはリムリックで結婚式を挙げる[55]。
イギリスのボクシングミドル級王者パットは叔父である[56]。
個人成績
クラブでの成績
出典:[57][58]
代表での成績
出典:[57][58]
アイルランド代表
|
年 |
出場 |
得点
|
1994 |
12 |
0
|
1995 |
5 |
0
|
1996 |
3 |
1
|
1997 |
5 |
0
|
1998 |
3 |
0
|
1999 |
2 |
0
|
2000 |
9 |
1
|
2001 |
5 |
1
|
2002 |
7 |
0
|
2003 |
0 |
0
|
2004 |
1 |
0
|
Total |
52 |
3
|
代表での得点
獲得タイトル
- 個人
脚注
外部リンク