模刻に熟練すると、1850年から1854年にかけてオリジナル連作集『パリの銅版画』(Eaux-fortes sur Paris)に取り組む。ヴィクトル・ユーゴーとボードレールはこれらの作品を高く評価した。1850年代なかば頃から精神状態が不安定になり、1858年からシャラントン=サン=モーリスの精神病院に入院した。翌年の退院後も制作活動を続けるが、1866年に再入院し、1868年に死去した。
「ノートルダム寺院の後陣」は一般にも人気があり、メリヨンの代表作とされている。川の上の空間で、教会の雄大な外壁に射す光と影が素晴らしい効果を示す。建築物の描画においてメリヨンは完璧であり、広く様々なスタイルを採り入れており、それらに同等に比較できるものとしては、J.M.W.ターナーのあまり知られていないがゴシック建築の描画がある。どんな都市の描写にも建築物は現れるが、それはビジョンでもあり、ささやかな年代記でもある。メリヨンの描いた建築物の一部には空想を示すものもあり、それは通りの人々、川、また極めて率直で甚だしく象徴的な場合には空に群れる人々といった、形から得た自由な空想である。おおよその彼の方向性は風景画家であるように見える。それらは学術的な正確さよりも、眼に映る美しさが描かれる。描画の技法でなく、導入の目的に着目すれば、風景画家とは言えない。その景色での感傷と例外的に調和するようにも見える。「死体公示所」の場合のように、絵で物語を語ろうとする。「La Rue des Mauvais Garçons」(ひそひそ話に熱心な通り過ぎる二人の女性がいる)の場合でもそれが示唆される。そして「ノートルダム橋のアーチ」の場合のように、その景色に活力と生気を与える、表現行為と、熱望する動きがある。彼の作品の人間性と固有の目的に関する限り、建築物については完璧であり、自然から得るものは主題の性格から要求されなかった。木を美しく描かず、葉に幸福を表さず、それらは緻密でも数多くもない。しかし都市の性格を表現するために、様々な水--ゆるやかな川の水、様々な空--灰色に曇った空や、屋根と煙突の世界の上を多う低い空などを描写する方法を知ることは必要だった。これらの水と空に彼は際立って大家であり、あらゆる光の中での変化を注意深い愛情をもって記した。
Frederick Wedmore, Méryon and Méryon's Paris, with a descriptive catalogue, of the artist's work ,1879年(2nd ed., 1892年); and Fine Prints 1896年(nd ed., f9o5).