シャトゥー (Chatou )は、フランス 、イル=ド=フランス地域圏 、イヴリーヌ県 のコミューン 。パリの西の郊外にあり、ルノアール が多くの絵を残した場所として知られている。
地理
シャトゥはパリ の10km西、セーヌ川 に面している。サン=ジェルマン=アン=レー とは6km、ヴェルサイユ とは10km離れている。コミューンの東は、セーヌ川を挟んでリュエイユ=マルメゾン と向かい合っている。セーヌ川に浮かぶアンプレッショニスト島(fr )では、毎年3月と10月に古物品およびハム見本市(fr )が開催されている。
歴史
シャトゥーからパリを眺める
シャトゥーのセーヌ河岸にある閘門
メゾン・フルネーズ。現在は博物館
舟遊びをする人々の昼食
シャトゥーとは、ガロ=ローマ時代の人名Cattusに由来する。シャトゥーの地にはかつてローマ人のヴィッラ があった。6世紀以降、ヴィッラの周囲の村が成長し、メロヴィング朝 時代には他の村も現れた。9世紀以降村は成長し、シャトゥーとクロワジーの領主が勢力を拡大した。住民は基本的に漁業とワイン用ブドウ栽培で生計を立てていた。ノルマン人がセーヌ川一帯へ侵攻しても貿易が妨げられることはなかった。11世紀に初めて教会が木造で建てられ、以後も同じ場所に教会が再建されている。
13世紀の記録には、村の名がChatoまたはCathoと書かれていた。
1374年、シャルル5世 時代の地主で王の宮廷官吏ジル・マレがシャトゥー領主となった。このジル・マレは現在ほとんど忘れ去られているが、当時王の友として輝かしい立場にあった人物で、1369年には王の名を冠した図書館を管理していた。シャルル5世の図書館は後に王家の図書館となり、現在のフランス国立図書館 へと至っている。
1762年、アンリ・レオナール・ジャン・バティスト・ベルタン がシャトゥーの領地を買い取り、古い城を修繕し、ジャック=ジェルマン・スフロ(fr 、パンテオン の設計者)の図面で新たな城を建てた。新しい城にはニンファエウム が建てられたが、1910年に壊されている。ベルタンが最後のシャトゥー領主であった。
19世紀、最初に穀物や野菜の生産でシャトゥー経済は発展した。1837年、パリからル・ペックへの鉄道路線が敷かれた。これが村の発展のきっかけとなった。シャトゥーに魅せられたパリ市民は、舟遊びをしたり、河岸のギャンゲット に集まった。多くの別荘が建てられた。
現代[いつ? ] に入るとシャトゥーにはガスが引かれ、街灯がともされ、トラムがやってきた。この時代には市場も開かれていた。19世紀後半、シャトゥー生まれの画家アンドレ・ドラン など印象派 や、モーリス・ド・ヴラマンク らフォーヴィズム の画家たちがシャトゥーに関心を抱いた。オーギュスト・ルノワール は、アンプレッショニスト島のレストラン、メゾン・フルネーズの常連客となった。『舟遊びをする人々の昼食 』(Déjeuner des Canotiers)は、シャトゥーで描かれた作品の一つである[ 1] 。1898年は、コミューンの産業史に残る記念の年となった。映画会社パテ が工場を構えたのである。ここでは1955年当時1700人が雇用されていた(1994年に工場は建て壊された)。
交通
道路 - 県道186号線。コミューン内を東西に横切り、リュエイユ=マルメゾンとの間に架かる橋を通る。県道321号線はコミューン内を南北に走り、北のカリエール=シュル=セーヌ、南のクロワジー=シュル=セーヌとをつなぐ。
鉄道 - RER A線 シャトゥー=クロワジー駅
出身者
脚注