コンラート1世 (ドイツ語 :Konrad I., 1090年 ごろ - 1152年 1月8日 )は、ツェーリンゲン公(在位:1122年 - 1152年)、ブルグント総督(在位:1127年 - 1152年)。コンラート1世は生涯のほとんどをホーエンシュタウフェン家 の勢力拡大を阻止することに費やし、このために自身はヴェルフ家 と同盟を結んだ。
生涯
コンラート1世は初代ツェーリンゲン公ベルトルト2世 とアグネス・フォン・ラインフェルデンの息子である。1120年、コンラート1世と兄ツェーリンゲン公ベルトルト3世 は、フライブルク に都市権を与えた。1122年、兄ベルトルト3世が殺害され、コンラートがツェーリンゲン公位を継承した。
1127年、コンラート1世とブルゴーニュ伯 ルノー3世 は、暗殺されたコンラート1世の甥ブルゴーニュ伯ギヨーム3世 の遺領をめぐり対立した。神聖ローマ皇帝 ロタール3世 が陥っている状況から、この状況下ではコンラート1世に利があった。ロタール3世はライバルであるホーエンシュタウフェン家 と対抗する支援を早急に必要としており、このためコンラート1世の主張を支持した。ロタール3世はルノー3世が皇帝の宮廷に出席する義務を果たさなかったという曖昧な根拠で、ルノー3世の主張を退けた。コンラート1世はブルグント総督の地位を手に入れたが、それは少なくともブルグント王国 における皇帝の一種の代理であった。
1138年、ローマ王 コンラート3世 は権力を手に入れ、ヴェルフ家 とホーエンシュタウフェン家 の間に権力闘争が勃発した。1150年代末まで、ツェーリンゲン公はホーエンシュタウフェン家の最も忠実な支持者の一人であった。
コンラート1世は1152年にコンスタンツ で死去し、ツェーリンゲン家の菩提寺であるザンクト・ペーター修道院に埋葬された。
結婚と子女
コンラート1世はナミュール伯ジョフロワ1世 の娘クレマンスと結婚し、少なくとも5子をもうけた。
注釈
^ フーゴは居城より自身を「ウレンブルク公」と名乗り、ブライスガウおよびオルテナウの領地を継承した。また、「公爵」の称号も用いた(実際には「ウレンブルク公領」は存在しなかった)。
脚注
参考文献
Lyon, Jonathan R. (2013). Princely Brother and Sisters: The Sibling Bond in German Politics, 1100-1250 . Cornell University Press
Zotz, Thomas (2018). Die Zähringer: Dynastie und Herrschaft . W. Kohlhammer. ISBN 9783170309739 . https://books.google.com/books?id=rXJ3DwAAQBAJ&pg=PT170
Eberhard Holz and Wolfgang Huschner (eds.): Deutsche Fürsten des Mittelalters , Edition Leipzig, Leipzig, 1995, ISBN 3-361-00437-3
Georg von Wyß (1882), "Konrad (Herzog von Zähringen)", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), vol. 16, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 634–638