当時、市の政治経済を支配していた都市貴族層、「リーヒャー・ツェッヒェ」(Richerzeche=A.Glierによると、文字通りには>Bruderschaft der Reichen<、邦語では「富者兄弟団、富者クラブ」ほどの意味;一種の「門閥寄合」)のイニシアティブによって、ローマ教皇ウルバヌス6世の名義により設立された[1]。大学創立は教会大分裂( 1378年-1417年)と関係がある。教会大分裂がはじまると、パリ大学が分裂してアヴィニョン派が優勢になり、ローマ派のドイツ人学徒がパリを退去してハイデルベルク、ケルン、エアフルトにやって来た。これがきっかけとなって3大学が生まれた[2]。なお、ケルン大学の前身は大聖堂付属学校とドミニコ会神学大学であるが、後者ではトマス・アクィナスの師アルベルトゥス・マグヌスや神秘主義で著名なマイスター・エックハルトが教鞭をとっている。[3]。教皇が1388年5月21日付けで大学に与えた特許状の宛先は、ケルンの市参事会員、審判人、市民、都市自治体(consules, scabini, cives et commune civitatis Coloniensis)となっている[4]。
開校は1389年1月6日。