本項目ではクロアチア のイスラム教 について記述する。
概要
オスマン帝国 時代に伝来し、現在では総人口の約1.5%が信仰[ 1] 。国内のイスラム系住民は国家により公式に認知されている[ 2] 。
歴史
オスマン帝国時代
15世紀 から19世紀 にかけて、トルコ系のオスマン帝国がクロアチアの一部を征服 すると、文明の痕跡を深く残すこととなる。捕虜やデヴシルメ 制度を通じて、イスラム教に改宗したクロアチア人 は無数におり、ヨーロッパ側のオスマン帝国最西端の国境は、クロアチア人の土地となることが確定した。1519年 、クロアチアはレオ10世 により「キリスト教の防御者」と呼ばれるに至った。
オスマン帝国における高官の歴史的名称の多くは、クロアチア人が起源となっていることを表している。例えば、ヴェリ・マフムード・パシャ (マフムート・パシャ・ヒルワート)やリュステム・パシャ (ルステム・パシャ・フルヴァト=オプコヴィチ)、ピヤール・パシャ (ピジャリ・パシャ・フルヴァト)らの「ヒルワート」や「フルヴァト」とは、クロアート人 を意味するクロアチア語 の名称である。
なお、この時代「クロアート人」や「セルブ人 」といった語を巡っては混乱が少なからずあり、「クロアート人」は南スラヴ 地域出身者を指したものであった[ 3] 。
1553年 、ローマ・カトリック教会 枢機卿 のアントゥン・ヴランチッチ や外交官のフランジョ・ザイが、オスマン帝国と和平条約の締結に向け話し合うべく、ハンガリー王国 の使節としてイスタンブール を来訪した。両者がリュステム・パシャと儀礼的な挨拶を行っている最中、通訳とトルコ語 で交わされた会話は突如中断を余儀なくされた。リュステム・パシャが両者ともクロアチア語を話せるかどうかを尋ねたためである。通訳はその後お役御免となり、交渉の全過程がクロアチア語で行われてゆく。
旅行家で作家のマルコ・A・ピガフェッタはロンドン で刊行した自著『イティネラリオ』(1585年 )の中で、「コンスタンティノープル(イスタンブール)では、帝国のほぼ全ての高官、特に軍人が理解する言語である、クロアチア語を話すのが習慣となっている」と言わしめている。
19世紀以降
現在のクロアチア共和国の領域では、ムスリム が1931年 の国勢調査 で初めて認知される。人数自体は4000人程度しかいなかったものの、1239人がザグレブ に居住した。第二次世界大戦 期のザグレブのイスラム教法典解説者は、イスメット・ムフティッチ であった。1945年 パルチザン により処刑された[ 4] 。
クロアチア人民共和国 時代における、登録したムスリムの数は以下の通りである。
ムスリム系住民は1960年代 、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 内の一民族として「ボシュニャク人 」と認知されることを支持した。1974年ユーゴスラビア憲法 ではムスリムを一民族として正式に認知しているため、宗教的な背景とは別に、ムスリム人 という分類を受け入れることとなる。例えば、連邦首相を務めたドジェマル・ビジェディッチ は「ムスリム」でありながら無神論 者であった。
ムスリム人という新たな分類の導入により、自らをムスリムと名乗る者の数が以下の通り急増している。
1931年から1961年までの国勢調査の間に記録された数に基づくと、自らをクロアート人か南スラヴ人 と名乗るムスリムが、かなりの数に上ったと言えるかも知れない。
ユーゴスラビア崩壊 以後、ボスニア紛争 中やその後に発生したボスニア 系ムスリムの流入により、ムスリムの数が増え続けてゆく。2001年 にクロアチアが行った国勢調査によると、総人口の1.3%に当たる56777人がイスラム教を信仰しているという[ 5] 。
以下の民族集団はムスリムと推定されている。
統計
クロアチア国内にあるムスリムの礼拝所
2011年のデータでは総計62977人のムスリム(総人口の1.47%)がいるが、以下の民族集団に分かれている[ 1]
27,959人 - ボシュニャク人
9647人 - クロアート人
9594 - アルバニア人
6704人 - ムスリム人
5039人 - ロマ
2361人 - その他
762人 - 不明
343人 - トルコ人
217人 - マケドニア人
159人 - モンテネグロ人
現在
ザグレブモスク
首都ザグレブには、オスマン帝国時代には一つもなかったものの、ヨーロッパ最大のモスク の一つがある(ザグレブはオスマン帝国に占領されたことは一度もない)。
リエカ に2013年 5月、新たなモスクが誕生した[ 8] 。ムスリム系住民はオシエク やシサク にもモスクを建設する予定という。
脚注
関連項目
外部リンク