クルタナガラ
在位期間 1268年 – 1292年
先代
ヴィシュヌヴァルダナ 死亡
1292年 実名
シュリー・マハーラージャーディラージャ ・シュリー・クルタヌガラ・ウィクラマ・ダルマトゥンガデワ 王朝
ラージャサ朝 (英語版 ) 父親
ヴィシュヌヴァルダナ 母親
ジャヤワルダニ 配偶者
シュリー・バジュラデウィ
子女 ガヤトリ・ラジャパトニ (英語版 ) テンプレートを表示
シュリー・マハーラージャーディラージャ ・シュリー・クルタヌガラ・ウィクラマ・ダルマトゥンガデワ (インドネシア語 : Sri Maharajadiraja Sri Kertanegara Wikrama Dharmatunggadewa 、不明 - 1292年 )[ 1] は、シンガサリ王国 の最後にして最大の王。クルタナガラ (Kertanagara )と称されることが多いが、クルタヌガラ (Kertanegara )、クリタナガラ (Kritanagara )、シヴァブッダ (Sivabuddha )と称されることもある。
彼の統治下でジャワの貿易や影響力はかなり発展し、その勢力圏はインドネシアの遠方の島々にまで拡大した。
概要
クルタナガラはシンガサリ王国 第5代国王であり、先代王ヴィシュヌヴァルダナ (在位:1248年 - 1268年 )の息子である。1254年 から副王として父の統治を支え続け、ヴィヌシュヴァルダナが1268年 に崩御すると即座に王位を継承した[ 2] :188 。シンガサリの王朝はそもそも、初代国王であるケン・アロク (英語版 ) が1222年 にクディリ王国 を倒して以降、ジャワ島 を中心に勢力を拡大してきた。
クルタナガラはヒンドゥー教 と仏教 による神秘的なタントラ ・シンクレティズム を信奉していた。また、自らをシヴァ神 とブッダ の神聖な神の化身である と主張していた。彼は多くの宗教行事を取り仕切り、在位中に関連する彫像や銘板を残している。
生涯
征服
クルタナガラがムラユ王国 に贈った聖観音 像
シンガサリ王国は、クルタナガラの治世下でスマトラ島 、マレー半島 、バリ島 に勢力圏を拡大し最盛期を迎えた。また彼は、モルッカ諸島 との香辛料貿易 におけるシンガサリ王国の関わりも増大させている。1270年 にはカラヤジャが、1280年 にはマヒシャ・ランカーがそれぞれ反乱を起こすも鎮圧された[ 1] [ 2] :198 。
クルタナガラは、領土に対する野心をジャワ島の外に見せた最初の支配者である。1284年 、彼は隣国のバリ島 を服属させた。また、チャンパ王国 を始めとする東南アジア諸地域との同盟締結にも成功している[ 4] 。
統治後期、クルタナガラはムラユ遠征 (英語版 ) を行い、スマトラ島東部のムラユ王国 を支配下に置いた。スンダ王国 (英語版 ) も同様に支配したと推測され、マラッカ海峡 地域の覇権を握ることに成功した。マドゥラ島 やボルネオ島 からもクルタナガラに服従を申し入れる地域が出ている[ 1] 。
対モンゴル
南宋 が元 によって滅亡へと追い込まれると、帝国はさらに東南アジア方面へ勢力圏を拡大しようとした。1289年 、皇帝フビライ・ハーン は使者を遣わし、シンガサリに対して朝貢 を迫った。クルタナガラは、この要求は重罪であるとして使者を拘束した。彼は使者たちの顔面に焼き印 を押し、耳を切り落とした醜い姿で本国に送り返している[ 4] 。
クルタナガラのこのような仕打ちに対し、フビライ・ハーンが報復のため軍を派遣するのは目に見えていたので、彼は支配力の強化を図ろうとした。1290年 頃、シュリーヴィジャヤ王国 の後継であるジャンビ を征服するため、スマトラへ向けたムラユ遠征を開始した。だが、インドネシア初のイスラーム教 を主軸とする政体を持つジャンビは、既に元と良好な関係を築いていた。
フビライ・ハーンは、1292年 にクルタナガラ処断のための強力かつ懲罰的な海上遠征を命じた[ 2] :198 。
ジャヤカトワンの叛逆
クルタナガラはジャワ島全域を支配下に置いていたが、元軍の艦隊が到着する前に政変が起こった。旧クディリ王家の血を引き、クルタナガラの最も強力な臣下の一人であるジャヤカトワン (英語版 ) が自身の主君に反旗を翻したのである。クルタナガラの軍勢は大半がスマトラ島へ遠征中であり、シンガサリの護りが手薄になった隙を突いてジャヤカトワンはクーデター を起こした[ 4] 。彼は陽動 部隊をジャワ島北東部に送り込み、シンガサリの軍勢をおびき寄せることで首都から遠ざけることに成功した。防衛機能が皆無となった首都は、クルタナガラとともにジャヤカトワンの攻撃を浴びた。
クルタナガラは1292年 の5~6月頃、シンガサリの宮殿内で多くの廷臣とともに弑逆された。ジャヤカトワンは自らがジャワの支配者であるとし、かつて滅んだクディリ王国の再興を宣言した[ 2] :199 。
僅かに生き延びたクルタナガラの親族に、摂政のアルヤ・ウィララジャに匿われてマドゥラ島 に避難していた義理の息子ラデン・ウィジャヤ (英語版 ) がいた。ウィジャヤはジャヤカトワンの王国を滅ぼし、摂政のウィララジャとともにマジャパヒト王国 を建国した[ 2] :199–200 。
精神
クルタナガラの義理の息子であるラデン・ウィジャヤは、王位を簒奪したジャヤカトワン打倒のために元のジャワ遠征軍 と手を結んだ。その後、彼は元との同盟を裏切り[ 2] :200–201 、軍勢をジャワから追放した[ 4] 。そして、現在のインドネシア に匹敵するほどの領土を抱えた大帝国 を建国することになる。
クルタナガラには男子の相続人はいなかったが、前述のラデン・ウィジャヤと結婚した娘のガヤトリ・ラジャパトニ (英語版 ) を通して、ラージャサ王朝、マジャパヒト王国の祖先として捉えられていた。娘のガヤトリと、孫娘のトリブワナ・ウィジャヤトゥンガデウィ (英語版 ) は王女ながらマジャパヒトを統治したと考えられている。彼の曾孫であるハヤム・ウルク (英語版 ) はマジャパヒト王国の最盛期を築き、ヌサンタラ 最大の帝国へと導いた。
クルタナガラは、後に彼の子孫によってマハクソービャ ・ブッダとして称えられている[ 7] 。
脚注
参考文献
外部リンク