オーランド・ブルーノ・ロマン(Orlando Bruno Román、1978年11月28日 - )は、プエルトリコ自治連邦区バヤモン出身の元プロ野球選手(投手)。
経歴
マイナー時代
1999年のMLBドラフト31巡目でニューヨーク・メッツに入団。しかし、メジャーに昇格することはなく、マイナー球団を転々としていた。
2006年開幕前の3月に開催された第1回WBCのプエルトリコ代表に選出された。
2007年には、台湾プロ野球の中信ホエールズの入団テストを受験したが、入団に至らなかった。
2009年開幕前の3月に開催された第2回WBCのプエルトリコ代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。
第一次兄弟エレファンツ時代
2010年は中華職業棒球大聯盟の兄弟エレファンツに入団。登録名は「羅曼」。4月16日の興農ブルズ戦で9回無失点と好投し、来台初勝利・初完封を飾った。同年は、リーグ最多の193イニングを投げ最多奪三振のタイトルを獲得した。
2011年は2年連続でリーグ最多の投球回を投げ、最多奪三振・最多勝のタイトルを獲得した。しかし同時に、リーグワーストとなる185安打を打たれた。
ヤクルト時代
2012年1月13日に東京ヤクルトスワローズと1年契約を結んだ[1]。4月22日の読売ジャイアンツ戦で来日初勝利を挙げる[2]。この年は先発ローテーションの一角として9勝をマーク。
2013年開幕前の3月に開催された第3回WBCプエルトリコ代表に選出され、3大会連続3度目の選出を果たした[3]。シーズンでは最初は先発としてスタートするも、リリーフ陣の相次ぐ離脱、不調により中継ぎに回った。交流戦終盤からは先発に戻ったが安定感を欠く投球が続き、さらに外国人枠の関係もあって登板の機会が中々得られなかった。8月からは再び中継ぎとして、ロングリリーフから接戦時まで多様な起用に応えた。先発では防御率7点台と結果を残せなかったが、中継ぎでは23試合で防御率1.16と安定した投球を見せ残留を勝ち取る。
2014年はクリス・ナーブソン、クリス・カーペンターの加入もあり、外国人枠の関係で二軍スタートとなった。4月12日に投手陣の補強のため、打撃不振のラスティングス・ミレッジに変わって一軍に昇格。トニー・バーネットの不在、前年終盤に抑えを務めた石山泰稚の不調を受けクローザーを任される。しかし、5月28日に右腕の変形性肘関節症と診断され全治不明の離脱となった。この年限りでの退団が濃厚と見られていたが、投球内容は良かったこともあり、球団は翌年の復活に懸け再契約した。
2015年はセットアッパーを中心に、谷間での先発も行うフル回転の活躍を果たした。後半戦以降は疲れも見せたが、10月2日の阪神戦では2イニングを無失点に抑え、優勝を決めた試合の勝利投手となった。今季は秋吉亮やローガン・オンドルセクらと共に抑えのトニー・バーネットへ繋ぐセットアッパーを担い、「14ROB」の愛称が付く活躍でチームをリーグ優勝に導いた。オフには第1回WBSCプレミア12のプエルトリコ代表に選出されたが辞退している[4]。ヤクルトとの契約延長はなく、12月に自由契約公示された[5]。
Lamigoモンキーズ時代
2016年2月11日にLamigoモンキーズと契約し、2011年以来となる台湾プロ野球復帰となった。8月には3勝0敗・防御率1.80で月間MVPに輝いた。しかしシーズン終了後に戦力外となった。
第二次中信兄弟時代
2017年2月8日に第4回WBCのプエルトリコ代表に選出され、4大会連続4度目の選出となった[6]。3月22日の決勝アメリカ合衆国戦に敗戦し、2大会連続で準優勝となった[7]。
2017年3月30日、古巣である中信兄弟と契約した。9月1日の統一ライオンズ戦では初と来台初となる二桁奪三振を奪った。9月25日に故郷のプエルトリコを襲ったハリケーンにより州全体が停電し、家族と連絡が取れなくなったため母国へ戻り今年でチームを去る事となった。
中信兄弟退団後
2018年は所属球団なく、オフにプエルトリコのウィンターリーグでプレー[8]。
2019年11月には第2回WBSCプレミア12にプエルトリコ代表として出場[9]。大会終了後、現役を引退[10]。
引退後
2022年6月25日、富邦ガーディアンズの投手コーチに就任し[11]、指導者として5年振りに台湾球界へ復帰した。2023年限りで退任した。
選手としての特徴
ストレートの最速156km/h、平均球速は約141km/h(2012年)。
人物
同じプエルトリコ出身のディッキー・ゴンザレスとは幼馴染であり、幼少期は実家が近所であった[12]。
楽曲のサルサが好きであり、日本人サルサ楽団であるオルケスタ・デ・ラ・ルスが登場曲として「頑張れロマン」を提供した[13]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
2010
|
兄弟
|
32 |
24 |
6 |
2 |
0 |
12 |
7 |
0 |
2 |
.632 |
807 |
193.0 |
161 |
6 |
68 |
2 |
18 |
142 |
16 |
0 |
73 |
65 |
3.03 |
1.19
|
2011
|
33 |
26 |
4 |
2 |
0 |
16 |
6 |
0 |
3 |
.727 |
840 |
203.2 |
185 |
11 |
60 |
1 |
8 |
161 |
14 |
0 |
83 |
76 |
3.36 |
1.21
|
2012
|
ヤクルト
|
26 |
26 |
3 |
2 |
0 |
9 |
11 |
0 |
0 |
.450 |
703 |
165.2 |
152 |
8 |
69 |
3 |
6 |
96 |
8 |
3 |
59 |
56 |
3.04 |
1.33
|
2013
|
30 |
7 |
0 |
0 |
0 |
3 |
6 |
1 |
4 |
.333 |
290 |
63.2 |
68 |
4 |
27 |
2 |
7 |
44 |
1 |
0 |
35 |
30 |
4.24 |
1.49
|
2014
|
16 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
5 |
0 |
1.000 |
65 |
16.0 |
11 |
0 |
7 |
0 |
1 |
9 |
1 |
0 |
2 |
1 |
0.56 |
1.13
|
2015
|
61 |
3 |
0 |
0 |
0 |
5 |
5 |
0 |
23 |
.500 |
330 |
78.2 |
66 |
2 |
35 |
2 |
3 |
58 |
2 |
0 |
25 |
21 |
2.40 |
1.29
|
2016
|
Lamigo
|
34 |
25 |
0 |
0 |
0 |
12 |
7 |
0 |
2 |
.632 |
701 |
157.0 |
167 |
19 |
58 |
1 |
9 |
154 |
9 |
0 |
97 |
81 |
4.64 |
1.43
|
2017
|
兄弟
|
23 |
22 |
1 |
1 |
0 |
4 |
8 |
0 |
1 |
.333 |
588 |
137.1 |
156 |
9 |
43 |
4 |
5 |
107 |
7 |
0 |
77 |
68 |
4.46 |
1.45
|
CPBL:4年
|
122 |
97 |
11 |
5 |
0 |
44 |
28 |
0 |
8 |
.611 |
2936 |
691.0 |
669 |
45 |
229 |
8 |
40 |
564 |
46 |
0 |
330 |
290 |
3.78 |
1.30
|
NPB:4年
|
133 |
36 |
3 |
2 |
0 |
18 |
22 |
6 |
27 |
.450 |
1388 |
324.0 |
297 |
14 |
138 |
7 |
17 |
207 |
12 |
3 |
121 |
108 |
3.00 |
1.34
|
タイトル
- CPBL
表彰
- CPBL
記録
- NPB投手記録
- NPB打撃記録
- その他の記録
- NPB
- 1イニング3暴投:2012年7月16日、対横浜DeNAベイスターズ11回戦(横浜スタジアム)、5回裏に記録 ※史上11人目(日本タイ記録)
- CPBL
背番号
- 34 (2010年 - 2011年、2016年)
- 53 (2012年 - 2015年)
- 78 (2017年)
- 41 (2022年 - 2023年)
代表歴
脚注
関連項目
外部リンク