オートコンブ修道院
オートコンブ修道院 (フランス語 :Abbaye d'Hautecombe, ラテン語 :Altaecumbaeum)は、フランス 、サヴォワ県 のサン=ピエール=ド=キュルティユにあるベネディクト会 修道院 。もとシトー会 の修道院であった。数百年にわたりサヴォイア家 の墓所であった。年間15万人の観光客が訪れる。
歴史
オートコンブ修道院の起源は、1101年ごろにブールジェ湖近くの狭い峡谷(Combe)にレマン湖 近くのオル修道院の隠者 らが創設した宗教共同体であった。1125年ごろに、モン・デュ・シャのふもとの湖の北西岸に移された。この場所はサヴォイア伯 アメデーオ3世 から与えられた地であり、アメデーオ3世は修道院の創設者とされている[ 1] 。そしてその後まもなくして、この修道院はクレルヴォー修道院から与えられたシトー会 の規律を受け入れた。初代修道院長はアメデ・ド・オート=リヴで、後にローザンヌ 司教となった。早い時期に、オートコンブ修道院から2つの娘修道院が創建された。1135年にイタリアのテッラチナ司教区に創建されたフォッサノヴァ修道院と、1214年にコンスタンティノープル 近くに創建されたサン・アンジェロ・デ・ペトラ修道院である。
教皇 ケレスティヌス4世 およびニコラウス3世 がオートコンブ修道院の修道士であったともいわれるが、異論もある。
数百年にわたり歴代サヴォイア伯およびサヴォイア公 が埋葬されたのがこのオートコンブ修道院であった。サヴォイア伯 ウンベルト3世 (「福者 」)とその妃クレメンティア は12世紀にこの修道院に埋葬された。そしてその1世紀後、サヴォイア伯トンマーゾ1世 の息子カンタベリー大司教 ボニファス・オブ・サヴォイ (英語版 ) がこの修道院教会の墓所に埋葬された。サヴォイア伯アイモーネ は教会墓所の拡張に資金を提供し、工事は1341年から1342年にかけて行われた[ 2] 。
サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世 の息子でオートコンブ修道院長であったアントニオも1273年にこの修道院に埋葬されている。
修道院は1750年ごろにサヴォイア公により(元々の姿より劣った形で)修復されたが、1792年に売却され陶器工場となった。1824年にサルデーニャ王 カルロ・フェリーチェ がこの遺構を手に入れ、ピエモンテ の建築家アーネスト・メラーノによりゴシック=ローマン様式の教会が建設され、シトー会 修道院となった。カルロ・フェリーチェとその妃マリア・クリスティーナ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ は、教会に向かう前庭にあるベレー礼拝堂に埋葬された。約300体の彫像と多くのフレスコ画が、幅26メートル(85フィート)の袖廊を持つ長さ66メートル(217フィート)の教会の内部を飾っている。 ほとんどの墓は、中世のモニュメントを再現したものにすぎない。
シトー会 はトリノ からこの修道院に再び落ち着いたものの、すぐにイタリア人修道士は去り、代わってセナンク修道院 から来た修道士が入り1884年ごろまでこの修道院にとどまった。この修道院は1922年にベネディクト会 のマルセイユ修道院 に引き継がれたが、1992年に修道士らはアルプ=ド=オート=プロヴァンス のガナゴビー修道院 (英語版 ) へと去り、現在、建物はエキュメニズム 派でカリスマ派 のカトリック 集団であるシェマン・ヌフ・コミュニティ(en )が管理している。
脚注
^ C.W. Previté-Orton, The Early History of the House of Savoy , (Cambridge University Press, 1912), p. 296.
^ Jean de Brecquessent , The Grove Encyclopedia of Medieval Art and Architecture , Volume 1, ed. Colum Hourihane, (Oxford University Press, 2012), p. 466.
この記事にはパブリックドメイン である次の百科事典本文を含む: Herbermann, Charles, ed. (1913). "Hautecombe ". Catholic Encyclopedia . New York: Robert Appleton Company.
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