オ・ラパン・アジル (Au Lapin Agile) は、パリ18区 (モンマルトル )のソール通り22番地にあるキャバレー またはシャンソニエ である。
1795年 にモンロワ夫妻がこの土地を買い、1825年に現在の建物が建てられた。最初は普通の家だったが、やがて行商人などを相手にする居酒屋に改造され(※MONTMARTRE.LES LIEUX DE LEGENDE ,by Olivier Renaultの解説にあるaubergeという言葉が、どこかの時点で「宿屋」と訳されて宿屋説が流布したようだが現在のオーナー。イヴ・マチューなど現地スタッフに数度確認したところ、宿屋だった事実ないとのこと)、19世紀 中頃からキャバレー として知られるようになった。1875 ~1880年 に風刺画家 アンドレ・ジル が描いた看板から「ラパン・アジル」と呼ばれ、ゴッホ やルノワール らの画家、シャンソン 歌手、詩人 、作家 などのたまり場になった[ 1] 。
1903年 に「フレデ爺さん 」ことフレデリック・ジェラールが経営者になると、パブロ・ピカソ 、マックス・ジャコブ 、ジョルジュ・ブラック 、アンドレ・ドラン 、ギヨーム・アポリネール 、アメデオ・モディリアーニ 、モーリス・ユトリロ 、ポール・フォール (フランス語版 ) [ 2] などのモンマルトルのボヘミアン 画家や詩人が集まるようになった[ 3] 。特にユトリロは「オ・ラパン・アジル」の絵を何枚も描いている[ 4] 。現在も店内の壁は彼らの絵で埋め尽くされている。
1913年 にこの建物の取り壊しが決まったとき、モンマルトルのもう一つの有名なキャバレー「ル・シャ・ノワール (黒猫)」の歌手でロートレックのポスターで知られるアリスティード・ブリュアン (フランス語版 ) がこれを買い取り、1922年 に「フレデ爺さん」の息子ポールに譲渡。以後もブレーズ・サンドラール 、アンドレ・サルモン (フランス語版 ) [ 5] 、ピエール・マッコルラン (フランス語版 ) [ 6] 、フランシス・カルコ (フランス語版 ) [ 7] 、ロラン・ドルジュレス (フランス語版 ) [ 8] などの作家や画家が集まり、当時はまだ無名だったリナ・ケティ (フランス語版 ) [ 9] 、レオ・フェレ 、ジョルジュ・ブラッサンス 、アレクサンドル・ラゴヤ 、イダ・プレスティ 、アニー・ジラルド 、ゲオルゲ・ザンフィル 、フレデリック・ロデオン 、エディット・ピアフ などの歌手、音楽家が出演。日本で有名なセルジュ・ゲンスブールは、画家として芽の出ない頃に店に出入りし、シャルル・アズナブールは、店のホームページの写真にも写りこんでいるが。客としてよく訪れた。二人とも歌手としては出演していない。エディット・ピアフはモンマルトルに住んでいる頃よく出演し、シャルル・アズナブールとも出会い、彼のレコードデビューを手伝った。ピエール・マッコルランは、後にフレデの娘マルゴと結婚。彼がラパン・アジルを舞台に描いた文学作品が、マルセル・カルネ監督・ジゃン・ギャバン主演の「霧の波止場」になった。カルネ監督が「霧」「波止場」というシチュエーションに拘ったので、舞台は海辺となったが、映像に映る店の店内のあちこちは、ラバンのキッチン周り等にそっくりである(参照 Montmartre Les Lieux de Legende/Olivier Renault)。この店で様々な出会いと多くのシャンソン、文学が生まれた[ 10] [ 11] 。
定義:キャバレー / シャンソニエ
1880-1890年頃の「オ・ラパン・アジル」
「オ・ラパン・アジル」はフランス語ではキャバレー の分類になるが、現在の「ムーラン・ルージュ 」のようにショーを中心とする華やかなキャバレーではない。日本語の「シャンソニエ 」には「シャンソン歌手」のほか、「歌や演奏を楽しみながら食事ができる店」という意味があるので[ 12] (ただし、フランス語の chansonnier には後者の意味はなく、「シャンソン歌手」、「シャンソン曲集」の意味だけである[ 13] )、「オ・ラパン・アジル」は日本語の「シャンソニエ」に近いが、食事は出さず、アルコールと音楽だけである[ 14] 。パリの日本語新聞『OVNI 』では、「かつて日本にあった歌声喫茶 を思い出す」シャンソニエと紹介されている[ 15] 。
歴史
宿屋からキャバレーへ
1913年の「オ・ラパン・アジル」
1784年 から1790年 にかけてパリ市 を取り囲むフェルミエー・ジェネローの城壁 (徴税請負人の壁)[ 16] が築かれ、パリ市に入る商品(特に酒類)に税金(入市税)が課せられるようになると、この城壁の外側に位置していたモンマルトルではパリ市内より安く酒類を提供する酒場に人々が集まるようになった。後の「オ・ラパン・アジル」が宿屋として誕生 したのはこの頃(1795年 )である。「オ・ラパン・アジル」は現在も残る「モンマルトル・ブドウ園 」の向かいにあるが、当時はまだブドウ畑がモンマルトルの丘の約4分の3を占めていた[ 17] [ 18] 。
1860年 にモンマルトルの南側が18区 としてパリに併合されると(北側はサン=トゥアン に併合)、ブドウ園を撤去して住宅が建てられるようになり、丘のふもとには繁華街が形成され、「ル・シャ・ノワール 」(1881年)、「ムーラン・ルージュ 」(1889年) などのキャバレーが次々と誕生した。「オ・ラパン・アジル」もこうしたモンマルトルのキャバレーの一つとしてゴッホやルノワールらの画家、シャンソン歌手、詩人、作家などのモンマルトルのボエーム(ボヘミアン)、そして娼婦とその情夫などの怪しげな人々、社会の周辺に生きる人々が集まる場所になった[ 19] 。
殺し屋のキャバレー
アンドレ・ジル (1840-1885) 作『オ・ラパン・アジルの看板』(1875-1880; モンマルトル美術館 所蔵)
当初、「オ・ラパン・アジル」は「盗人のたまり場 」と呼ばれ、やがて「殺し屋のキャバレー 」と名づけられた。これは、店の壁に、アンリ4世 を刺殺したフランソワ・ラヴァイヤック (1577-1610) や残忍な連続殺人事件で知られるジャン=バティスト・トロップマン (1849-1870)[ 20] などの有名な殺人犯を描いた版画 が掛けられていたからである[ 11] [ 21] [ 22] 。1955年 に「オ・ラパン・アジル」でデビューしたクロード・ヌガロ (フランス語版 ) [ 23] は、「ここでは死ねない(「オ・ラパン・アジル」の向かいのサン・ヴァンサン墓地は、ブドウ畑に近すぎるから(また戻ってきてしまう)」と語った[ 11] 。
ジルのウサギ
1875年 から1880年 頃に店主は風刺画家アンドレ・ジル (1840-1885) に看板の制作を依頼した。ジルが描いた、酒瓶を持って鍋から飛び出したウサギの絵が「ジルのウサギ (ラパン・ア・ジル; lapin à Gill)」として人気を博し、以後、キャバレーそのものが「ラパン・アジル」(Lapin Agile; 足の速いウサギ) と呼ばれるようになった[ 10] [ 11] 。
フレデ爺さん
フレデ爺さんとロバの「ロロ」
1903年 、「フレデ爺さん 」ことフレデリック・ジェラールが経営者になった。長い白い髭を生やし、アラスカの猟師 のような恰好をした男であった。1960年にアティス=モンス (イル=ド=フランス地域圏 )に生まれた彼は、これ以前からモンマルトルで行商人 として、「ロロ」という名前のロバ を連れて青果や鮮魚を売り歩いていたが、1900年 に歌手・ギタリストとしての才能を発揮したいと思い、無政府主義者 ジベール・ルノワール (フランス語版 ) が設立したラヴィニャン通り28番地のキャバレー「ル・ジュット (Le Zut)」を安く買い取った。「ル・ジュット」という名前は詩人シャルル・クロス が中心となって組織し、ヴェルレーヌ やランボー も参加した高踏派 詩人らのグループ「ジュティスト(セルクル・ジュティック (フランス語版 ) )」に因むものであり、当時は無政府主義者らのたまり場だったが、フレデ爺さんが経営者になってから、ピカソやマックス・ジャコブらの画家も通うようになった。同じラヴィニャン通りの13番地に芸術家の共同アトリエ兼住宅「バトー・ラヴォワール(洗濯船 ) 」があったからである[ 24] [ 25] [ 26] 。「バトー・ラヴォワール」はキース・ヴァン・ドンゲン 、アメデオ・モディリアーニ 、フアン・グリス 、コンスタンティン・ブランクーシ らがアトリエを構え、ピカソが『アビニヨンの娘たち 』(1907) を描いた場所、キュビスム が誕生した場所であり[ 27] 、フレデ爺さんが「オ・ラパン・アジル」の経営者になると、ここもまた彼らのたまり場になった。
ピエール=エルネスト・プラン (1838-1913) 作『ラパン・アジル』(1890)
フレデ爺さんは妻ベルト・セブルスと共に「オ・ラパン・アジル」を経営した。ベルトには娘マルゴ(マルグリット; 後にピエール・マッコルランと結婚)、フレデ爺さんにはヴィクトールとポール(愛称「パウロ」)という息子があった。彼はまた、ロバだけでなく、サル 、カラス 、白ネズミ 、犬 などを飼っていて、「ノアの方舟 」と形容される動物小屋があった[ 19] [ 28] [ 11] 。詩を朗唱する者あり、軍歌 を歌う者あり、ほろ酔い気分で絵筆をとる者あり、酔いつぶれ、いびきをかいて寝てしまう者あり、前衛芸術 家と伝統主義者 との白熱した議論あり…これが当時の店の雰囲気であり、壁に掛けられた大きな石膏 のキリスト(磔刑 像)が「穏やかな眼差しで彼らを見つめていた」。客のなかにはならず者もいて、フレデ爺さんは彼らを追い払って、どうにか芸術家らを守っていたが、暴力沙汰が起こることもあり、息子ヴィクトールが店内の受付カウンター付近で頭を撃たれて死亡する事件が発生した[ 19] 。銃弾の後が今でも店内入り口の天井に残る。[36][37]
画家ロロ
アンデパンダン展 で買い手がついた画家ロロの『かくてアドリア海に陽は沈みぬ』(1910)
ロロが尻尾で絵を描いているところ (1910)
1910年 、作家のロラン・ドルジュレスはここである実験、むしろいたずら を企てた。フレデ爺さんのロバ「ロロ」に絵を描かせたのである。ロロの尻尾に絵具を付けてニンジンを与える。喜んだロロが尻尾を振るたびに、一筆、また一筆と絵が仕上がっていくという仕掛けであった。この絵は『かくてアドリア海に陽は沈みぬ (フランス語版 ) 』と題され、ヨアヒム=ラファエル・ボロナーリ 作としてアンデパンダン展 に出展された。ボロナーリとはジャン・ド・ラ・フォンテーヌ の寓話 詩に登場するロバの名前「アリボロン」をもじったもの(アナグラム )であり、ロロの愛称であった。しかも、ドルジュレスはこれをインプレッショニスム(印象派 )、ダダイスム などをもじって新しい流派「エクセシヴィスム(過剰主義) 」の絵画であるとして、「ダダ宣言」に倣って「エクセシヴィスム宣言」を発表したため、アンデパンダン展で買い手がつくほどであった。当初はボロナーリという名前からイタリア人作家と思われ、ロバが描いた絵だと知られるようになったのはかなり後のことである。現在はミリー=ラ=フォレ(エソンヌ県 )の「ポール・ベデュー文化スペース」に展示されているが、2016年 にグラン・パレ で開催されたカランボラージュ展で展示されるなど、いまだに話題になる絵画である。フレデ爺さんは後にロロを連れて、サン=シル=シュル=モラン(セーヌ=エ=マルヌ県 )に引っ越したマルゴとマッコルランの夫妻のもとに身を寄せたが、ある日、ロロが池で死んでいるのが見つかり、モンマルトルから引き離された辛さに自殺したのだと噂された[ 29] [ 30] [ 31] 。
取り壊しの危機とブリュアンによる買い取り
一方、1860年にモンマルトルの一部が18区としてパリに併合された後、1900年 頃から古い家が取り壊され、新しい住宅が建てられるようになった。この一例が「オ・ラパン・アジル」のすぐ近くにあったエクトル・ベルリオーズ (1803-1869) の家である。ベルリオーズはここに1834年 から1837年 まで妻と共に住み、1911年 にはジョルジュ・ブラック がここにアトリエを構えた。ユトリロが1911年 から1912年 にかけて描いた『ベルリオーズの家』は、現在、オランジュリー美術館 が所蔵している[ 32] 。
ロートレックのポスター『アンバサドゥールのアリスティード・ブリュアン』(1892)
「オ・ラパン・アジル」も1913年 に取り壊されることになったが、フレデ爺さんの友人でキャバレー「ル・シャ・ノワール」の人気歌手だったアリスティード・ブリュアン (フランス語版 ) がこれを買い取って窮地を救った。こうして「オ・ラパン・アジル」は第一次世界大戦 中も生き延びることができたが、戦後、かつてのボヘミアン画家らはモンパルナス に移り住み、モンパルナスに芸術家のコミューンが形成された。「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」も閉鎖され、同じような集合アトリエ兼住宅「ラ・リューシュ (蜂の巣)」がモンパルナス(15区 )に誕生し、1910年代にラ・リューシュの生みの親でフランス人彫刻家のアルフレッド・ブーシェ を中心に、キエフ (ウクライナ )出身の彫刻家アレクサンダー・アーキペンコ 、帝政ロシア出身の画家マルク・シャガール 、ミシェル・キコイーヌ 、シャイム・スーティン 、彫刻家オシップ・ザッキン 、クラクフ大公国 出身の画家モイズ・キスリング など、主にソ連 や中東欧 での弾圧を逃れてきた若いユダヤ人 芸術家がここを拠点に活動した[ 33] 。
1922年 にブリュアンはフレデ爺さんの息子「パウロ」ことポールに「オ・ラパン・アジル」を売却し、新たな時代が切り開かれることになった。フレデ爺さんは1938年 7月8日に死去、享年77歳。ピエール・マッコルランの『霧の波止場 (フランス語版 ) 』(1938年 にマルセル・カルネ 監督により映画化)、コラ・ヴォケール が歌った『フレデ』(1968年 )[ 34] など、多くの芸術家にインスピレーションを与えることになった[ 25] [35]
1972年の「オ・ラパン・アジル」
新たな時代
パウロが経営者になると、かなり無秩序だったこれまでとは違って、夜の音楽会が活動の中心になった。リナ・ケティが『待っている』を歌い、チャールズ・チャップリン がここで初めて1917年にレオ・ダニデルフ (フランス語版 ) が作曲した『ティティーヌを追い駆けて』を聞き、『モダン・タイムス 』に『ティティナ』として採用。いずれも世界的に知られる曲になった。1938年 、パウロは歌手イヴォンヌ・ダルル (フランス語版 ) [ 35] と出会い、結婚。1972年 にはイヴォンヌ・ダルルの前夫との息子イヴ・マチュー (フランス語版 ) に店を譲った。イヴ・マチューは現在も店主として店を盛り上げている[ 19] 。
「オ・ラパン・アジル」に出演した主な音楽家
後に俳優などとして活躍した場合も含む。これらの音楽家の写真は公式ウェブサイトに掲載されている[ 10] 。
20年代・30年代:リナ・ケティ、イヴォンヌ・ダルル、ピエール・ブラッスール 、アンドレ・パスドック (Andre Pasdoc)、クロード=アンドレ・ピュジェ (フランス語版 ) 、ピエール・アッソ (フランス語版 ) 、ジャック・ピル (フランス語版 ) 、クレマン・デュウール (フランス語版 )
ギターを弾くフレデ爺さんとモンマルトルのボヘミアンたち (1905)
40年代:ピエール・ドュダン (フランス語版 ) 、ジャン=ロジェ・コシモン (フランス語版 ) 、レオ・フェレ 、フランソワ・ビエドゥー (フランス語版 )
50年代・60年代:アレクサンドル・ラゴヤ、イダ・プレスティ、ジョルジュ・ブラッサンス、アニー・ジラルド(リンク有)、ジャック・エステレル (フランス語版 ) 、クロード・ヌガロ
70年代以降:ジャック・ドゥブロンカール (フランス語版 ) 、ゲオルゲ・ザンフィル、フレデリック・ロデオン、ピエール=イヴ・アルトー (フランス語版 ) 、エリック・ロブレヒト (フランス語版 )
現在の店の雰囲気
アカシア に覆われた現在の店の入口
最後に、店の雰囲気を伝える『OVNI』の記事を引用する。
赤いランプシェードのかかった薄暗いサロン。長い年月によりそい、人々の手と酌み交わされるグラスでこすれて、すっかりすり減った大きなテーブル。壁一面を埋め尽くす巨匠たちの作品と、ノスタルジックでやさしいピアノの旋律。やがて真ん中のテーブルになにげなく座っていた歌手たちが、友人に語りかけるかのようにふと歌い始める。生きる喜びや悲しみ、恋や離別、社会風刺などを歌うシャンソンは、言葉が分かってこそ、そこはかとなく味わい深いもの。だから有名な曲がかかれば、詩をかみしめながらみんなで歌う。歌い手も指揮者となって全体を盛り上げる。かつて日本にあった歌声喫茶を思い出す、何ともいえない一体感が生まれる。もちろん世界中から集まるお客さんの中には、フランス語が得意でない人もいるが、この伝説のシャンソニエは手慣れたもの。歌詞なしで歌うスキャットの掛け合いで見事に参加させてくれる……。[ 15]
脚注
関連項目
外部リンク
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^ “アンドレ・サルモン (1881-1969) ”. フランスの詩人、小説家、美術評論家。若い頃度々旅行し、単身ロシアに滞在し、しばらくフランス大使館の事務所にいた。1903年、パリに帰り雑誌に詩作を発表し、「プチ・パリジャン」の記者となった。アポリネール、ピカソらと交友し、キュビスムの活動に参加する一方で雑誌「イソップの饗宴」「詩と散文」を刊行した。初めは幻想的詩人と目されたがロシア革命以降は人類愛をうたう叙事詩に転じた。主な作品に詩集「信ずること」(1926年)、小説「優しい仲間たち」(1913年)などがあり、その他美術評論、時評、回想記なども多い(『20世紀西洋人名事典』). 2018年9月4日 閲覧。
^ “ピエール・マッコルラン (1883-1970) ”. フランスの小説家、詩人。若くして両親を失い、1900年パリに出て画家を志したが生活のため種々の職業を経験。1910年代モンマルトルの前衛芸術家たちと親交。また旅を好み、ヨーロッパや北アフリカの港に遊ぶ。作品はいずれもモンマルトルや港町を舞台に芸術家、娼婦、船員などの生活を、抒情的でメランコリックに描いた。1950年アカデミー・ゴンクール会員。主な作品に「船員の歌」(1918年)、「女騎士エルザ」(1921年)、「霧の波止場」(1927年)、「深夜の伝統」(1930年)、「夜明けの記録」(1955年) 等がある(『20世紀西洋人名事典』). 2018年9月4日 閲覧。
^ “フランシス・カルコ (1886-1958) ”. フランスの詩人、小説家。ニューカレドニア 生まれ。本名フランソア・カルコピーノ・チュゾリ。父は役人。1910年頃、パリで放浪生活をはじめ、泥棒や不良少年らとかかわり合いながら、下層民の生活の中に詩想を感じとり「放浪生活とわたしの心」(1912年)などの詩集を歌った。「伝説ユトリロの生涯」(1927年) などパリで生きた芸術家や詩人の伝記のほか、小説「追いつめられた男」(1922年)ではアカデミー・フランセーズ 小説大賞を受けた。他の作品に「たかが一人の女だけれど」(1924年)、「モンマルトルからカルチエ・ラタンへ」(1927年)などがある(『20世紀西洋人名事典』). 2018年9月4日 閲覧。
^ “ロラン・ドルジュレス (1886-1973) ”. フランスの小説家。美術学校で学んだ後、ジャーナリストとなり、カルコ、マッコルランなど前衛芸術家と親交を持つ。第二次世界大戦に従軍し、その体験をユーモアと哀歓を交えて描いた「木の十字架」(1919年)でフェミナ賞 を受賞し、一躍文名を得る。観念上の問題をさけ、戦争のむごたらしい現実を素朴で力強いタッチで描き、独特のレアリスムを生む。1929年アカデミー・ゴンクール 会員となる。他の作品は「美女のキャバレー」(1919年)など(『20世紀西洋人名事典』). 2018年9月4日 閲覧。
^ “リナ・ケティ (1911-1996) ”. イタリア共和国リグーリア州ラ・スペツィア県サルザーナ 生まれ。1930年代からフランス、1954年から1965年にかけてカナダ、1965年から再びフランスに戻り、シャンソン歌手として活動。. 2018年9月4日 閲覧。
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