スペイン船団はブラウンのスクーナーを破壊し、自分たちの海岸線をスペインの略奪船から防衛しようというアルゼンチンの試みは無に帰した。この事件の結果、アルゼンチンは海岸線防衛と通商保護のために船団を派遣することを決定し、そのためにブラウンを海軍中佐として軍務につけ、その艦隊の司令長官に任命した[8]。これにはカナダ商船船員として登記されていたベンジャミン・フランクリン・シーヴァー(Benjamin Franklin Seaver)から異議が申し立てられたが、後にシーヴァーは異議を撤回した。これはブラウンがかつて強制徴募された経験があることが広く知られるようになったため、シーヴァーは彼が艦隊の指揮を執ることに賛成の方に決意を覆したのだと信じられている。シーヴァーはアメリカ生まれだったが、ジェファーソン大統領が通商禁止法をうちだした後、国際商取引に課せられた二重課税を避けるために多くの商船船員と同じようにカナダ人になっていた。
1814年3月10日、「フリエタ(Julieta)」・「トルトゥガ(Tortuga)」・「フォルトゥナ(Fortuna)」・フェラッカの「サンルイス(San Luis)」と合流した「エルクレス(Hercules)」は、ハシント・デ・ロマラテ艦長(Captain Jacinto de Romarate)に率いられた強力なスペイン艦隊に対峙した。スペインの無敵艦隊は、6隻の軍艦、ブリッグ、砲艦と、4門の地上砲台からなっていた。エルクレスが座礁した後、激烈な戦いが繰り広げられた。アメリカ生まれの士官で「フリエタ」の司令官だったベンジャミン・フランクリン・シーヴァーは戦死した。「エルクレス」は3月12日の午前10時まで自分を護りきった。この戦闘の結果、イライアス・スミス司令官(Commander Elias Smith)、ロバート・スタシー大尉(Lieutenant Robert Stacy)、そして45人の水兵がぶどう弾によって死亡した。およそ50名が負傷し、軍医のバーナード・キャンベル(Bernard Campbell)は対応に追われた。旗艦は少なくとも82発の砲撃を受け、戦場で修理を受けた。喫水線下は鉛板がとりつけられ、船体は革とタールで覆われた。これ以後、この艦は「黒いフリゲート」と渾名されることとなる。イギリス生まれのリチャード・バクスターが新しい司令官に任命された。1814年3月17日、ブラウンは「フリエタ」「セピル(Zephir)」と共にマルティン・ガルシア島を攻撃した。「エルクレス」はスペイン艦「エスペランサ(Esperanza)」「カルメン(Carmen)」と交戦を開始した。
戦いはアルゼンチンが勝利を宣言したあとも続いた。イポリト・ド・ボシャール(Hippolyte de Bouchard)の協力を受け、ブラウンはアルゼンチン海域だけでなく両アメリカ大陸西海岸や太平洋のいたるところでもスペイン船舶を追い回し、彼の艦隊の船主たちは恐ろしく心配させられた。ある島に乗り上げ、熱病にうなされているブラウンの元へ、ブラウンはアルゼンチンへ帰国後軍事法廷にかけられることになっている、という報せが届いた。彼は一旦イギリスに戻り、法的・政治的戦いを味方の協力と共に勝ち抜いた。彼がアルゼンチンに戻ると「エルクレス」を贈呈された。ウィリアム・ブラウンはその後農業を行い家族との満ち足りた幸せな生活を14年にわたって過ごした。
ブラジルはアルゼンチンを封鎖することから作戦を開始した。この非常事態にアルゼンチンはブラウンの指導の下、彼が指揮する新しい艦隊を何とか間に合わせた。アルゼンチンの封鎖に対する報復行動として、彼は精力的にブラジル沿岸を攻撃し、ブラジルの海運に打撃を与え、奮闘したフンカルの戦い(Battle of Juncal)においては7隻の船と8隻の砲艦をもって17隻からなるブラジル艦隊を全滅させ、敵の司令官を捕虜とした。1827年6月11日、ブエノスアイレスをすぐ目の前にして、アルゼンチン軍とブラジル軍の間にロス・ポソスの決戦(Battle of Los Pozos)が行われた。アルゼンチン軍はわずか11隻の船しかなかったのに対し、ブラジル軍には31隻もの船があった。戦闘の前、ウィリアム・ブラウンは彼のよく知られている2つの言葉を残した。「同志諸君!勝利と訓練を信じよ。そして祖国へ万歳三唱![9]」そしてその数分後、「砲撃開始!国民がみているぞ![10]」激しい遭遇線の後、ブラジル軍は総崩れとなって敗走し、ブラウンがアルゼンチン側の委員となって1827年10月4日にブエノス・アイレスの自由を保障する条約が結ばれると、ある種の平和が訪れた[5]。
^スペイン語: El padre de la Armada Argentina. Used mainly in Argentina but also in other countries like the United Kingdom, see e.g. this BBCreport. URL accessed on 15 October 2006.
^スペイン語: Guillermo Brown or Almirante Brown, see e.g. his biography at Planeta Sedna. URL accessed on 15 October 2006.
^Admiral William Brown : Liberator of the South Atlantic Aguinis, Marcos; Tyson, Bill P
^スペイン語: simboliza las glorias navales de la República Argentina y cuya vida ha estado consagrada constantemente al servicio público en las guerras nacionales que ha sostenido nuestra Patria desde la época de la Independencia. ARMADA ARGENTINA, Almirante Guillermo Brown. 2014/12/29閲覧.
^スペイン語: Brown en la vida, de pie sobre la popa de su bajel, valía para nosotros por toda una flota. ARMADA ARGENTINA, Almirante Guillermo Brown. 2014/12/29閲覧.
^Gibbons, Edward Stanley (2004). Stanley Gibbons Stamp Catalogue Ireland (2nd ed.). London & Ringwood: Stanley Gibbons Ltd. pp. 30–31. ISBN0-85259-583-2
^See [1] at the Irish head of government official website. Full name: speech by the Taoiseach, Mr. Bertie Ahern T.D., at the Unveiling of a Monument to Admiral Brown and the naming of 'Admiral Brown Way', at Sir John Rogersons Quay on Wednesday, 27 September 2006 at 7.00 pm. 2015/1/2閲覧.