グレトリの最初の成功は、ローマ・アリベルティ劇場のために作曲され、国際的に賞賛されたイタリア語の幕間劇あるいはオペレッタ作品「ラ・ヴェンデンミアトリーチェ La Vendemmiatrice」によってもたらされた。その後、ローマのフランス大使館の職員がグレトリに貸し与えたピエール=アレクサンドル・モンシニー(英語版)のオペラ作品の台本を研究したことで、彼はフランスのオペラ・コミックに専心しようと決心したと言われている。そして1767年の元日にグレトリはローマを発ち、短期間ジェノヴァに滞在した(この時彼はヴォルテールと知り合い、オペレッタを1作品制作している)後、パリへと移った。
フランス時代
パリでの最初の2年間、グレトリは貧困や名を知られないことによる困難さと戦わなければならなかった。しかし彼には友人がいなかったわけではなく、またスウェーデン大使クロイツ伯爵の取りなしもあって、グレトリはジャン=フランソワ・マルモンテル(英語版)からリブレットを手に入れ、6週間もしないうちに付随音楽を完成させた。そして1768年8月に上演されたこのオペラ作品「ル・ユロン Le Huron」は、比類無き成功を収めた。その後すぐに「リュシール Lucile」と「語るテーブル Le Tableau parlant」の2作品が上演され、それ以降グレトリのコミック・オペラの先進的作曲家としての地位は確固としたものとなった。
代表的オペラ
グレトリは全部で50作ほどのオペラを作曲した。特に代表作とされるのが、「ゼミールとアゾール(英語版)Zémire et Azor」(1771年初演)と、「獅子心王リシャールRichard Cœur de Lion」(1784年初演)である。後者は、大きな歴史的事件に間接的に関わっている。その劇中に、晩餐の場面で歌われる有名なロマンス(小曲)・「おおリチャードよ、おお我が王よ、世界はあなたを捨てる O Richard, O mon Roi, l'univers t'abandonne」—カーライルは「テュエステスのそれと同じほどに破滅的である」と評した—があり、この曲は1789年10月3日に近衛兵からヴェルサイユ要塞の将校達へ贈られたものであった。そして、それからあまり時間が経たない頃に、グレトリのオペラから借用された、人々の忠誠の表現に対する答えとなったのがラ・マルセイエーズであった。「獅子心王リシャール」は、ジョン・バーゴインによってイギリス向けに改作が行われている。
彼のオペラ=バレ作品「カイロの隊商 Caravan du Caire」は、ハープとトライアングルの伴奏によるささやかなトルコ風異国情緒をもつ、「Die Entführung aus dem Serail」の物語の筋に従った救出冒険劇であり、1783年にフォンテーヌブロー宮殿で初演が行われ、その後のフランスにおけるレパートリーに50年間にわたって残る作品となった。
後半生
作曲家グレトリ自身も彼が目撃した大きな出来事に影響を受けないわけにはいかず、「共和主義者ロジエール La Rosière républicaine」や「理性の饗宴 La Fête de la raison」などといった彼のいくつかのオペラの題名は、これらの作品が属している新しい時代の幕開けを明らかに示すものとなっている。だがこれらは、単なる「機会音楽 pièces de circonstance 」にすぎず、作品中に誇示されている共和主義者の熱狂は、純粋であるとはいえなかった。古典文学を題材とした作品によって成功することはもはやほとんどできなかった。
See Michael Brenet, Vie de Grétry (Paris, 1884); Joach. le Breton, Notice historique sur la vie et les ouvrages de Grétry (Paris, 1814); A Grétry (his nephew), Grétry en famille (Paris, 1814); Felix van Hulst, Grétry (Liege, 1842); L. D. S. Notice biographique sur Grétry (Bruxelles, 1869).