露米会社で活動したアレクサンドル・バラノフ。ロシア領アラスカの初代総督でもある
アレクサンドル・アンドレーエヴィチ・バラノフ (ロシア語 : Александр Андреевич Баранов , ラテン文字転写 : Alexandr Andreevich Baranov 、1746年 - 1819年 )は、ロシア帝国 の商人・探検家。毛皮を求めてアラスカ に入り、ロシアの入植地を建設した。また初代のアラスカ総督ともなった。
バラノフは1746年に現在のアルハンゲリスク州 にあたるカルゴポリ (Kargopol)の町で生まれた。15歳で家を出たバラノフは東シベリア のイルクーツク で商人として成功したが、当時毛皮取引が成長していたアラスカに魅せられた。1790年 、アラスカで活躍していた毛皮商人のグリゴリー・シェリホフ がバラノフを雇い、彼はアラスカでの成功の足がかりを築く。1792年 にはアラスカ南沖のコディアック島 にあった入植地を新たな場所(現在のコディアック )に移した。
1795年 、ロシア人以外のヨーロッパ人商人の進出を懸念したバラノフはアラスカ南東部 の島(現在のバラノフ島 )で現地のトリンギット 族から土地の使用権を買い、1799年 にロシア人とアレウト族 からなる移民団を送り新たな入植地ミハイロフスク(現在のシトカ 付近)を作った。シェリホフは1795年 に死去し、その跡を継いだニコライ・レザノフ の意向により、1799年 に設立された露米会社 の支配人はバラノフとなっている。
バラノフはアラスカ・アリューシャン列島 ・千島列島 に露米会社が持つ権益のすべてを管理した。1802年 にトリンギット族との対立でミハイロフスク入植地は破壊されたが、バラノフは1804年 に軍隊を連れて島に戻りトリンギット族と交戦した(シトカの戦い を参照)。彼は新たな拠点を築き、これを故郷近くの大きな町アルハンゲリスク にちなんでノヴォ・アルハンゲリスク(現在のシトカ )と名付け、ロシア領アメリカ の首都とした。
アラスカ植民地は食糧難に苦しんだが、アシカ やラッコ の猟とその毛皮の取引で利益を出した。バラノフは先住民を指揮してカリフォルニア 沖に至るまでの広い範囲で猟を行わせた。また先住民に対する初等教育の機会拡大を支持して学校などを建設している。この時期、ロシア正教会 の聖職者がアラスカに入り先住民への布教を行ったが、先住民が露米会社の奴隷同然となっており、毛皮商人が先住民に対して残虐にふるまい搾取していることを非難したため、バラノフと聖職者の関係は荒れがちであった。
バラノフは1799年から1818年 にかけて「アラスカの領主」として君臨したが、人生の終わりを感じてロシアへの帰途に就いた。彼は太平洋を南下し喜望峰回りでロシアに帰ろうとしたが、途中で重病になりジャワ島 のオランダ植民地の拠点バタヴィア (現在のジャカルタ )で1819年 に死亡した。
出典・参考文献
森永貴子 『ロシアの拡大と毛皮交易 - 16-19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』 彩流社、2008年。
関連項目