陸軍元帥ヴィンディシュ=グレーツ侯爵、ヨーゼフ・クリーフーバー 画、1848年
ヴィンディシュ=グレーツ侯、ルートヴィヒ・アンゲラー 撮影、1860年
アルフレート1世・カンディードゥス・フェルディナント・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ (Alfred I. Candidus Ferdinand Fürst zu Windisch-Graetz , 1787年 5月11日 [ 1] ブリュッセル - 1862年 3月21日 ウィーン )は、オーストリア の貴族、軍人。陸軍元帥 。
生涯
ボヘミア のターハウ(現在のチェコ 領プルゼニ州 タホフ (英語版 ) )の領主ヨーゼフ・ニクラス・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ 伯爵と、その2番目の妻でアーレンベルク公爵家 の当主シャルル・マリー・レーモン の娘であるレオポルディーヌ(1751年 - 1812年)の息子として生まれた。1804年5月にヴィンディシュ=グレーツ侯爵(Fürst zu Windisch-Graetz)に陞爵し、同年6月に17歳でオーストリア軍槍騎兵連隊所属の陸軍中尉に任官した。第3回、第5回、第6回の対仏大同盟戦争 に参加、ライプツィヒの戦い などで戦功を立て、ウィーン会議 中には戦争の英雄としてもてはやされた。
1817年6月15日にフラウエンベルク(現在のチェコ領南ボヘミア州 フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ )において、シュヴァルツェンベルク侯女エレオノーレ(1796年 - 1848年)と結婚し、長男のアルフレート2世 (1819年 - 1876年)をはじめ間に7人の子女をもうけた。エレオノーレはシュヴァルツェンベルク侯フェリックス の姉である。
ヴィンディシュ=グレーツは、1848年から1849年にかけてのオーストリア帝国 領における革命運動 (ドイツ語版 、英語版 ) (Revolution von 1848/49 im Kaisertum Österreich )を抑圧した人物として知られ、自由主義者や民主主義者の間では非常に悪名高い人物となった。1848年6月中旬にプラハ で6月暴動 (Prager Pfingstaufstand )に際し、暴徒側に妻を殺害されながらも、プラハの首都長官として暴動を鎮圧した。フリードリヒ・エンゲルス は自らの発行する「新ライン新聞 」において、ヴィンディシュ=グレーツの暴動鎮圧を「オーストリアのごろつき軍隊がチェコ人に暴虐を働いたおかげで、ボヘミアとドイツ諸邦の平和的共存の可能性は完全に失われた」と酷評している。
1848年10月のウィーン蜂起 において、ヴィンディシュ=グレーツは皇帝フェルディナント1世 によって鎮圧軍の最高司令官に任命された。10月31日のウィーン市街地への進軍によりヴィンディシュ=グレーツは反革命派の勝利を確実なものとしたが、暴徒側から約2000人の死者と夥しい負傷者を出す結果となった。即決裁判による革命派政治家の処刑、とりわけフランクフルト国民議会 議員のロベルト・ブルーム (Robert Blum )の処刑は、国内外で大きな反発を引き起こした。
ヴィンディシュ=グレーツは1849年3月のハンガリーの独立革命運動の鎮圧にも大きな役割を果たした。侯爵はオーストリア軍を率いてハンガリーに進駐し、1849年2月末のカーポルナの戦い (Kápolnai csata )でハンガリー軍を破った。同年4月10日、義勇兵とポーランド人亡命民族主義者から構成されていたハンガリー革命軍は、オーストリア軍に最終的に敗北して解散を余儀なくされた。しかしその2日後の1849年4月12日、ヴィンディシュ=グレーツは新皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 との意見の相違から陸軍大臣を解任され、後任にはルートヴィヒ・フォン・ヴェルデン 男爵(Ludwig von Welden )が選ばれた。ヴィンディシュ=グレーツはボヘミアの領地に引退した。
その後、ヴィンディシュ=グレーツは外交面で様々な活躍を見せ、1859年にはマインツ のドイツ連邦要塞(Bundesfestung )の総司令官となり、1861年にはオーストリア貴族院議員となった。翌1862年にウィーンで世を去った。
1835年より自らの名前を通称に冠したオーストリア陸軍第14竜騎兵連隊(Böhmisches Dragoner-Regiment „Fürst zu Windisch-Graetz“ Nr. 14 )の連隊長を務めた。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク