アドルフォ・バレンシア(adolfo valencia, 1968年2月6日 - )は、コロンビアの元サッカー選手。元コロンビア代表。ポジションはフォワード。
その強いフィジカルとバイエルン・ミュンヘンやアトレティコ・マドリードと云った強豪を含む7つの国のクラブに所属した経験から「エル・トレン」(鍛錬の意)との愛称を持っている。また、FIFAワールドカップにも二回出場した。
来歴
クラブ
バジェ・デル・カウカ県のブエナベントゥーラで生まれ、インデペンディエンテ・サンタフェで選手となった。ここで鮮烈なパフォーマンスを見せた彼はドイツの強豪、バイエルン・ミュンヘンに移籍した。ドイツ・ブンデスリーガ1993-1994では3シーズンぶりにクラブはブンデスリーガを制した。その中で彼はメーメット・ショルと共にブンデスリーガで11得点し、クラブ得点王となった[1]。
その後、スペインへ渡りアトレティコ・マドリードに加入。CDログロニェスとのプリメーラ・ディビシオンでの一戦で低調なパフォーマンスを見せたため、ヘスス・キルを怒らせ[2]、「黒人には自刃してもらわねばならない」との発言を浴びせられた[3]。
1995年に母国のインデペンディエンテ・サンタフェに復帰しアメリカ・デ・カリに移籍した。そして再びヨーロッパに向かい、レッジーナに所属した後、コロンビアに戻ってインデペンディエンテ・メデジンに移籍した。翌年にPAOKテッサロニキに移籍し、2000年にメトロスターズに加入、16得点を挙げた。
2001年にインデペンディエンテ・サンタフェに復帰、その後杭州緑城[4]、UAマラカイボ(スペイン語版)、杭州緑城と移籍し引退した。
代表
1992年7月31日にコロンビア代表として初出場、このアメリカ合衆国代表戦では代表初得点も決め、この試合唯一の得点者にもなった。
その後、1994 FIFAワールドカップ、1998 FIFAワールドカップに出場した。前者ではルーマニア代表、アメリカ合衆国代表からそれぞれ1得点を奪った。
彼はベルナルド・レディンのようにコロンビア代表のストライカーであった。1993年9月5日には1994 FIFAワールドカップ・南米予選のアルゼンチン代表戦では同国から得点を挙げた3人のうちの1人となった[5]。
個人
息子のホセ・アドルフォ・バレンシアもサッカー選手である。
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 37試合 14得点(1992年-1998年)[6]
コロンビア代表 | 国際Aマッチ |
年 | 出場 | 得点 |
1992 |
2 |
1
|
1993 |
14 |
7
|
1994 |
5 |
3
|
1995 |
2 |
0
|
1996 |
6 |
3
|
1997 |
1 |
0
|
1998 |
7 |
0
|
通算 |
37 |
14
|
得点
出典[7]
タイトル
クラブ
- バイエルン・ミュンヘン
- アメリカ・デ・カリ
- UAマラカイボ
脚注
外部リンク