鶴田 全夫(つるた まさお、1925年4月 - 1992年2月[1])は、日本のアナウンサー。NHKとラジオ東京→TBS[注釈 1]で活動していた。
一部文献では、「鶴田全男」[2]「鶴田金夫」[3]という表記が見られる。
来歴・人物
1950年、NHKに入局(同期には近江正俊、酒井広)[4]。NHK札幌放送局での勤務を経て、1953年1月にラジオ東京へ入社[1]。主に映画、音楽各番組、スポーツ中継実況を担当した[1]。1962年4月より、編成局運動部兼アナウンス部[1]。1963年11月に報道局運動部の配属[1]となり、アナウンス職を離れる(ほかのスポーツ実況担当アナウンサーは、11月1日付で報道局運動部兼ニュース部の配属となった[5])。運動部長も務めた[6][7]。
1972年2月よりテレビ本部報道局付、同年11月よりテレビ本部報道局取材部、1973年11月より調査局、1974年2月より人事室開発センター、1975年2月よりテレビ本部ネットワーク室、1976年3月よりラジオ本部、1977年2月よりラジオ本部TBSカンガルー募金事務局へ異動を重ねた[1]。ラジオ本部所属当時は募金事務局長も務めていた[8]。当時の通称は「カンガルー伯父さん」[8]。1980年4月にTBSを定年退職[1]。
1992年2月に死去[1]。66歳没。
詳細情報
出演番組
- スポーツ中継
- スポーツ中継以外
映画
作曲
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『TBSアナウンサーの動き』より、鶴田の活動情報を参照。
- ^ a b 『TBSアナウンサーの動き』より、1959年12月27日放送の「第一回日本レコード大賞」の記述を参照。
- ^ ラジオ東京の後輩アナウンサーである鈴木治彦の著書『アナウンサーの独り言』(1983年1月20日、光風社出版発行。コード:ISBN 4875197152)29ページより、鈴木に指導を行ったという先輩アナウンサーの一人として明記。
- ^ NHKアナウンサー史編集委員会 編「NHKアナウンサー一覧」『アナウンサーたちの70年』講談社、1992年12月21日、16頁。ISBN 4-06-203232-5。
- ^ 『TBSアナウンサーの動き』より、「1963年11月1日 『報道局への大量異動』」を参照。
- ^ 『TBS紳士録』第5回の1ページより、「元運動部長」という記述あり。
- ^ 『座談会 炎の声』11ページより、藤田和弘の発言を参照。
- ^ a b 『TBS紳士録』第5回の1ページより、「カンガルー伯父さん(募金事務局長)こと鶴田全夫」と記述。
- ^ 『TBSアナウンサーの動き』より、1958年の記述を参照。
- ^ 『TBS紳士録』第5回の1ページより、「北海道のノド自慢を振り出しに」と記述。
- ^ a b 外部リンク(テレビドラマ人名録)を参照。
- ^ 日曜劇場「マンモスタワー」 - ウェイバックマシン(2010年3月27日アーカイブ分) - TBSチャンネルの再放送情報ページ
- ^ 『TBSアナウンサーの動き』より、1960年9月20日の記述を参照。なお、鶴田本人の活動情報内には、”「兼高かおる世界の旅(59)」”という記述が見られる(1959年は、『兼高かおる世界の旅』ではなく『兼高かおる世界飛び歩き』を放送)。
参考資料
- TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
- 付録のDVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録されたPDFファイル
- 『TBSアナウンサーの動き』(ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書)
- 社内報の再録
- 『TBS紳士録』第5回(1976年11月15日発行『TBS社報』NO.436の6 - 13ページ掲載記事。当時のTBS社員の人となりを紹介した記事。全8ページ)
- 『座談会 炎の声』(1997年の全3回にわたりTBSの社内報で連載された記事。新旧TBSスポーツアナウンサーによる座談会の書き起こし。全24ページ)
外部リンク