飯田 宏作(はんだ こうさく、1856年7月9日(安政3年6月8日) - 1912年(大正元年)11月15日)は日本の裁判官、法学者、教育者、弁護士。東京弁護士会会長、和仏法律学校(現・法政大学)校長心得。
1856年(安政3年)6月8日、仙台に生れる。実父の飯田元作は仙台藩士。幼年期より才能を見込まれ、藩校の養賢堂で学ぶ。明治維新を経て、江戸昌平黌の元教授であった遠藤温(後に宮城県5区から衆議院議員)の書生となり、漢学をはじめ法律や経済を学んだ。1876年(明治9年)には司法省法学校の予科へ入学し、フランス学を修めた。さらに本科へ進むと、司法省の法律顧問であったジョルジュ・アッペールのもとで法律学を学び、1884年(明治17年)に法学士の学位を授かる。同年、大阪始審裁判所の判事として任官。1890年(明治23年)には東京控訴院の判事に昇進した。また在任中は、代言人試験委員や判事登用試験委員も務めている。1893年(明治26年)1月に判事を依願退職し[2]、弁護士を開業。さらに東京弁護士会の会長に就任した。1897年(明治30年)12月には、和仏法律学校(現・法政大学)の校長心得に就任。1912年(大正元年)に死去、享年56。
主な著書
- 『刑法.総論(和仏法律学校第2期講義録)』(東京法学院、1892)
- 『刑法各論(和仏法律学校第2期講義録)』(和仏法律学校、1894)
- 『刑法各論講義(和仏法律学校第1期講義録)』(和仏法律学校、1895)
- 『日本刑法講義』(東京法学院、1890)
- 『仏和会話指南』(寛裕舎、1887)
脚注
- ^ 在野名士鑑.巻の2
- ^ 任免裁可書・明治二十六年・任免巻一