郭 涼(かく りょう、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。字は公文。幽州右北平郡の人。『後漢書』では立伝されていないが、後漢草創期の功臣の1人である。
事跡
姓名
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郭涼
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時代
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新代 - 後漢時代
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生没年
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〔不詳〕
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字・別号
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公文(字)
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本貫・出身地等
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幽州右北平郡
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職官
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兵曹掾〔劉秀(後漢)〕→雁門太守〔後漢〕
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爵位・号等
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広武侯〔後漢〕
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陣営・所属等
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劉秀(光武帝)
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家族・一族
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〔不詳〕
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身長8尺、気力は盛んであった。武将ではあるが、経書に通じて智略も多く、辺境の事務に明るかったため、北方では有名な人物であった。
最初は、幽州牧朱浮に招聘され、兵曹掾として任用された。その後、薊で反乱を起こした彭寵の討伐に功績があり、広武侯に封じられている。
その後は雁門太守に遷り、建武9年(33年)、驃騎大将軍杜茂と共に繁畤(雁門郡)で盧芳の部将尹由を攻撃したが、盧芳が賈覧率いる匈奴(胡)騎兵を差し向けてきたため、敗退した。その後は守りを固めて盧芳軍の内部分裂を待った。
建武12年(36年)、盧芳が雲中郡攻略に失敗すると、尹由に将帥に任じられて平城(雁門郡)を守備していた雁門の人である賈丹・霍匡・解勝らが、尹由を殺害して郭涼に降伏してきた。郭涼はその事情を光武帝に報告したところ、賈丹らは列侯に封じられた。その後、盧芳側の城邑は次々と降伏し、郭涼は雁門の豪族・郇氏を誅滅したが、その他の一般民衆は保護し、雁門郡を平定した。これも原因となり、盧芳は匈奴の地へ逃走した。光武帝は、この功績から、郭涼の子を中郎として抜擢し、左右の宿衛を担当させた。
以後、郭涼に関する記述は、史書に登場しない。
参考文献