遊佐 盛光(ゆさ もりみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。能登畠山氏の家臣。
生涯
遊佐続光の嫡男として誕生。初め主君・畠山義綱より偏諱を受け綱光と称したが、永禄9年(1566年)の永禄九年の政変で義綱が追放されると盛光と改めた。綱光時代の行動はほとんど知られていない。
元亀元年(1570年)に、畠山義慶の下、長綱連・温井景隆・平堯知らと共に年寄衆に任じられた。上杉氏との外交を担当するなど能登畠山家でも重要な地位にいたと考えられるが、家督を継いだ時期は不明で、盛光が成年に達して以後も父・続光は重要な外交や政策を行っていた。
天正5年(1577年)、七尾城の戦いで父と共に上杉謙信に内応するが、天正6年(1578年)の謙信の死去後、再び織田軍が能登に攻め込んでくると織田信長に降伏した。しかし、以前に上杉氏に内応し親織田派の長続連らを殺した罪を問われ、天正9年(1581年)、父と共に処刑された[1]。一説には降伏ではなく、早々に七尾城から逃亡し潜伏していた所を長連龍 (続連の次男) に探し出されて一族皆殺しにされたという説もある[2]。
脚注
- ^ 『信長公記』
- ^ 『長家家譜』