谷川藩(たにがわはん[1][注釈 1])は、和泉国日根郡谷川村(現在の大阪府泉南郡岬町多奈川谷川)を居所として、江戸時代初期にごく短期間存在した藩。1606年、桑山清晴が祖父桑山重晴の遺領のうち1万石を分与されて成立したが、1609年に改易された。
歴史
前史
桑山重晴は豊臣秀長の麾下に属した武将であり、天正13年(1585年)の紀州征伐後は秀長に与えられた紀伊国和歌山城の城代を務めて3万石を領した[4][5][6]。その後、文禄4年(1595年)の秀次事件の際に伏見城の守衛にあたったことが功績とされて[7]和泉国谷川において1万石を加増された[8]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の役の際、桑山重晴(治部卿法印)およびその嫡孫の一晴(重晴の長男・一重の子)は東軍に属し、和歌山城を守備するとともに、西軍に属した新宮城の堀内氏善に対処した[8]。同年、桑山重晴は致仕し、その領地4万石のうち和歌山城と2万石を一晴が継いだ[8]。1万石は桑山元晴(重晴の次男)に与えられ[8][9]、谷川1万石は重晴の所領(隠居料)とされたが、このほかに一晴が4000石、元晴が2000石を重晴の隠居料として拠出したため、重晴は合計1万6000石を隠居料として領有することとなった[8][9][注釈 3]。
立藩から廃藩まで
慶長11年(1606年)、桑山重晴が死去した[7][8]。重晴の養老料1万6000石のうち6000石は元晴に与えられ、1万石は桑山清晴(元晴の子)に与えられた[8]。清晴は和泉国日根郡谷川に陣屋を置いた。『角川日本地名大辞典』[7]・『藩と城下町の事典』は、清晴が1万石を分与されたことをもって谷川藩の立藩とする。
慶長14年(1609年)、桑山清晴は幕府より勘気を被って蟄居処分となった[10][7][11][注釈 4]。その所領はその父・桑山元晴の大和国御所藩領に編入され、谷川藩は廃藩となった[7][12]。
後史
谷川藩領を編入した御所藩桑山家は、寛永6年(1629年)に無嗣を理由として廃藩・絶家になった[12]。
領地
中世、当地には興福寺領の荘園である谷川荘が所在した[13]。慶長年間には「桑山氏勝」によって豊国崎寄りに谷川港が開かれたが、土砂の堆積を受けて延宝3年(1675年)から元禄2年(1689年)にかけて観音崎寄りに港を移した[14]。谷川港は漁港として機能したほか、和泉瓦や燃料用薪炭の積み下ろし地として繁栄した[14]。
歴代藩主
- 桑山家
外様。1万石。
- 清晴
脚注
注釈
- ^ 日本郵便の郵便番号検索によれば、「谷川」は「たにがわ」と読む[2]。『藩と城下町の事典』は「たにかわ」とする。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 桑山一晴は1万6000石を領してのちに大和国葛下郡布施に移り[9]、桑山元晴は(従前の所領2000石と合わせ)大和国葛上郡内で1万石を治めることとなった(御所藩)[9]。桑山一晴は慶長9年(1604年)に没し、弟で養子の桑山一直(一重の次男)が1万6000石を継ぎ、のちに大和国新庄に移った(大和新庄藩)[8]。
- ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』の「桑山清晴」の記事によれば、「将軍のとがめをうけ除封」とある[11]。慶長14年(1609年)時点の将軍は徳川秀忠。『角川日本地名大辞典』の「御所藩」の項目によれば、谷川藩は「徳川家康の勘気にふれて改易された」とある[12]。
出典
参考文献