記念章(きねんしょう)は、日本国政府が行う表彰のうち、国家的行事への参加者や国家事業の関係者を授与対象として、賞勲局が所管の法令によって制定・発行した記章[1]。
ただし、賞勲局以外の官庁が同局所管の法令によらず、各官庁の設置法および省・庁令を法的根拠として行う表彰に際して個人に贈られる徽章、あるいは地方公共団体、企業、法人その他の団体において記念すべき事柄に際して製作され、関係者に頒布・授与または贈呈される記章の中にも、名称に「記念章」が付くものがある。
これらの記念章は、制定している機関により形態は様々であるが、主に佩章式、略綬式、バッジ式の形態が採られている。例えば、表彰を受けた自衛官が防衛省制定の防衛記念章を着用する例が見られる。その他、消防関係団体(日本消防協会)の記念行事において吏員・団員に頒布されている他、国体開催時に主催者が出場選手・関係者に頒布・授与するために制定・製作されている。
また、賞勲局が発行した記念章であっても名称に「記念章」が付かない例もある(大婚二十五年祝典之章、戦捷記章)。
現在では、永年勤続した地方議会議員やその他、消防吏員・消防団員などへの表彰に際し、表彰機関から授与・贈呈される場合、又は表彰を祝して受彰者の関係者が受彰者への記念品として贈呈する場合もある。
賞勲局所管の記念章は、大日本帝国憲法の発布に伴って1889年(明治22年)8月2日に制定された大日本帝国憲法発布記念章に始まる。同章の制定を求めた1889年7月8日の賞勲局請議では、「帝国憲法発布ノ儀ハ曠世ノ大典ナリ即チ此光栄ヲ記念セシムルタメ一種ノ記章ヲ制定セラレ儀式ニ参列并観兵式ニ出場セシモノヘ頒チ……与ヘラレ候ヘハ適当ト存候」とその趣旨が説かれるとともに、ヨーロッパ各国が君主の即位や憲法発布などに際して章牌(メダル)を発行する例が列挙されている[2]。これ以降、日本の政府(賞勲局)は天皇即位などの国家的行事および国家事業の挙行に際して記念章を制定・発行し、参加者や関係者へ授与するようになった[注 1]。記念章は全部で12種類が制定され、いずれも金属製の本体である章(メダル)、章と綬を連結するための環、左胸に佩用(着用)するための綬(小綬、リボン)から構成された[注 2]。その図様や授与対象者の範囲はつど勅令により定められ、製造は造幣局が担当した[6]。佩用は授与された本人のみが可能で、子孫に及ばないとされた(保存することについては許された)。また、授与に際しては賞勲局から「記念章の証」(授与証書)も同時に発行された[7][8]。ただし、最後に制定された1942年(昭和17年)の支那事変記念章は1946年(昭和21年)に廃止されたほか[1]、朝鮮統治に関わる皇太子渡韓記念章・韓国併合記念章・朝鮮昭和五年国勢調査記念章および第一次世界大戦での戦勝を記念した戦捷記章については、現在では各制定法令が実効性を喪失したとする政府解釈が採られている[9][10][11][12]。
第二次世界大戦後には、日本国憲法公布時に記念章を発行しようとする計画があったが実現しなかった(後述)。その後も、1959年(昭和34年)の皇太子明仁親王と正田美智子の成婚や1968年(昭和43年)の明治100年、1976年(昭和51年)の昭和天皇在位50年といったイベントや節目の際に記念章を求める声は挙がったものの、賞勲局所管の記念章はいずれも制定されず[13][注 3]、代わりに記念貨幣が発行されている。しかし、第1次小泉内閣における「栄典制度の在り方に関する懇談会」の提言[15]を受けた平成14年8月7日閣議決定(栄典制度の改革について)には、「国際的な災害救助活動などに参加した者に対して、その事績を表彰するため、記章等を活用することについて検討する。」という文言が盛り込まれている[16]。
最初に制定された記念章である。種印製作は江上源二郎(表)と蒔田一太郎(裏)[17]。章の表面の高御座の図は、憲法発布式が行われた明治宮殿正殿の玉座である。総製作数は皇族へ授与する金章が18個、それ以外の者への銀章が2,251個であった[18][19]。
種印製作は池田隆雄[17]。総製作数は皇族へ授与する金章が33個、それ以外の者への銀章が1,301個であった[18][21]。
1907年(明治40年)の皇太子嘉仁親王の大韓帝国訪問の表彰として制定された。
1910年(明治43年)の韓国併合記念の表彰として制定された。原型製作は佐藤磐[17]。
大正天皇即位の大礼記念の表彰として制定された。表面の種印製作は池田隆雄、裏面の原型製作は佐藤磐[17]。
第一次世界大戦における同盟及び連合国の勝利記念の国際表章として特別に設けられた。原型製作は畑正吉[17]。総製作数は19万3,300個[26]。青島の戦いおよびシベリア出兵に従軍した者へ授与された大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章とは異なる。
第一回国勢調査実施記念の表彰として制定された。章の表面の国司の図は、樋畑雪湖が第一回国勢調査記念切手の制作に際して、『日本書紀』より大化の改新の時期に当たる大化元年9月甲申の日の「遣使者於諸国録民元数」という記述に取材して高橋健自とともに再現した大化年間の国司の姿を、畑正吉が原型製作したものである[28][29][30]。
昭和天皇即位の大礼記念の表彰として制定された[注 5]。原型製作は畑正吉(表)と山田甲子雄(裏)[17]。総製作数は7万個余[32]。
1930年(昭和5年)3月に関東大震災後の帝都復興事業が完成したことに伴い[34]、関係者を表彰するため制定された[注 6]。原型製作は畑正吉[17]。総製作数は3万個[32]。
1930年(昭和5年)、朝鮮における最初の本格的な国勢調査実施記念の表彰として制定された。同記念章の意匠は章の裏面を除き第一回国勢調査記念章と同じである。裏面の原型製作は宮島久七[17]。
紀元二千六百年を記念して制定された。次に制定された支那事変記念章が発行・授与されることなく廃止されたため、事実上最後の記念章となる。原型製作は畑正吉[17]。章の表面の瑞雲中に見える宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)と宮城および二重橋は「万邦無比の国体・御歴代の御遺烈・肇国の悠遠・大御稜威」などを[38]、綬の配色は八紘一宇を表現したものとされる[38]。章の製造は造幣局が行い、組立てや仕上げは民間業者に委託された[38]。総製作数は約20万2千個で、うち女性用は1,600個余であった[39][38]。
最後に制定された記念章である。原型製作は加藤正巳[17]。章の表面の桜花は「一億国民の銃後の赤誠」を表現したものとされる[42]。1942年(昭和17年)7月6日、銃後において総力戦遂行の業務に従事し軍務を幇助する者を表彰する記念章が必要であるとして、「支那事変銃後奉公記章」の制定を求める賞勲局請議が出された結果、「支那事変記念章」の名称で制定されるに至った[41][43]。記念章制定の背景には、それまで軍人・軍属以外の者が軍務を幇助して功績を挙げた場合、その表彰は従軍者同様に従軍記章の授与でもっぱら済まされていたのに対し、日中戦争に続いて太平洋戦争へと戦線が拡大した当時、国家総動員法の下で国民の軍事的奉仕活動は従前の戦争よりも大規模化・多様化したため、特別に記念章を設けて軍務幇助に貢献があった者へ授与する必要が出てきたことがある[42][43]。官公職、議員、防空・警防関係、刊行・出版物関係、貯蓄金融公債関係、学校・青少年団・宗教団体関係、農林水産業公共団体関係、商工業公共団体関係、電気・通信・船舶・航空関係、鉄道運輸関係、軍人援護社会事業関係、その他、というように官民や内地・外地の区別なく[42]、合計約470万人という広範囲かつ多数の人々に同章を授与することが計画されていた[41][43]。賞勲局が提出した書類の上では、先に定められた支那事変従軍記章との関係に注意が払われ[41][43]、両者の区別を明確にする必要から、支那事変従軍記章の受章者へは支那事変記念章を授与しないこととされた[44]。その後、「支那事変」の呼称が「大東亜戦争」へ吸収統合され、1940年4月29日以降の支那事変従軍者の多くの論功行賞が大東亜戦争のそれに一括されると従軍記章や記念章を定めた勅令も改正され[45]、新たに制定された大東亜戦争従軍記章を授与された者には支那事変従軍記章および支那事変記念章を授与しないこととされた[46]。しかし実際には、支那事変記念章の授与に必要な奏請の手続きは行われないうちに敗戦を迎えることとなり[47]、そのまま1946年3月29日、支那事変従軍記章や大東亜戦争従軍記章とともに廃止された[48]。
終戦直後の連合国軍占領下で計画されるも、未制定に終わった記念章である。日本国憲法公布を控えた1946年10月、第1次吉田内閣において新憲法公布を表彰して記念章の制定を目指す動きが起き、2,000個発行する計画と勅令案および畑正吉によるデザインが作成された[49]。賞勲局は終戦連絡中央事務局(終連)を介して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)との間で記念章調製と発行の可否について交渉を行い、GHQは初め、記念章の調製自体は認める一方で当時占領政策下で使用が凍結されていた銀以外の金属を材料とするよう指示を出した[49]。これに対して賞勲局は銀の使用をめぐり再交渉を目指したが、終連を通じて、GHQが記念章の授与対象が限られている点をも問題視していることを知ると、結局記念章の制定計画を撤回するに至った[49][注 8]。同章の制定計画の頓挫も含めて、戦後の賞勲局は記念章を制定していない[13]。
大韓帝国では、清からの独立より韓国併合までの間に、5種の記念章が制定された。
満洲国も日本同様に、同国の勅令(当初は教令)により各紀念章を制定・発行した[注 9]。将官・高級将校を中心に日本軍人の受章者も多い。
満洲国建国の功労紀念として制定された。
愛新覚羅溥儀の満洲国皇帝即位大典の紀念として制定された。
満洲国皇帝となった溥儀が1935年(康徳2年)4月に日本の皇室を訪問した紀念として制定された。日名子実三のデザインを元に、原型製作は表面を加藤正巳が、裏面は磯崎正広と加藤が担当した[17]。
1940年(康徳7年)の建国神廟創建の紀念として制定された。
1940年に満洲国で最初に(かつ唯一)実施された国勢調査の紀念として制定された。
1939年(成吉思汗紀元734年)に成立した蒙古聯合自治政府では、政府樹立に功労のある者への表彰として肇建功労章を制定・授与した[57]。
自衛官が着用する防衛記念章については該当項目参照のこと。また、予備自衛官が着用する記念のための徽章としては予備自衛官勤続記念徽章があり、幕僚長表彰にかかる第2号、方面総監表彰にかかる第3号、地方協力本部長表彰にかかる第4号がある。
海上保安官は表彰を受けた際、職員章の下に2つまでを限度として、表彰記念章を佩用することができる。防衛記念章および消防団員の表彰歴章が個人の購入によるものであるのに対して、海上保安官の表彰記念章は、海上保安庁による貸与品となっている。
今後は出す道はあろうとは思いますが、非常に難しいと思いますのは、戦前に出しました記念章の配るというのですか、授与する相手方を考えてみますと、大体公務員、例えば最近の事例でいいますと、即位の礼みたいなことがありますと、戦前はやっていたわけでございます。その人たちは即位の礼にやはり公務員がいろんな形で協力されまして、そこでいろいろな係員になったり企画委員になったり、いろいろな役についたりしてやる、その人たちに広く配っておったという話になっているわけでございます。そうすると、戦後もしそういうのをつくるとしたら、そういう人たちだけで配って、果たして範囲はいいのか、この問題があろうと思うのです。国民全部が祝うのだから、それなら全員に配ったらどうだ、こういう議論もあろうかと思いまして、難しい問題がありますが、多分そういう話になりますと、なかなかつくる機会というのはないのじゃないか、かように考えております[14]。