12代 西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、1870年7月11日(明治3年6月13日[注釈 1])- 1942年(昭和17年)11月17日)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。滋賀県蒲生郡八幡町長。西川甚五郎家山形屋12代、諱・嘉重[3]。
経歴
滋賀県蒲生郡八幡町大杉町[4](現・近江八幡市大杉町)で、西川重威の長男として生まれた[4]。1898年(明治31年)家督を相続した[4]。大阪商業学校を卒業し[4]、その後、東京の欧文正鵠学館(サンマー英学校)で学んだ[4]。漢学は中村栗園、山本太造に師事した[4]。
1902年(明治35年)以降、八幡町長、同町会議員、滋賀県会議員、大日本蚕糸会滋賀支会副会頭、同評議員などを歴任した[4]。
1911年(明治44年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から[6]1925年(大正14年)9月28日まで2期務めた。
実業界では、滋賀県農工銀行取締役、近江水電相談役、八幡製糸社長、八幡銀行頭取、近江帆布取締役、滋賀合同貯蓄取締役、奈良染布取締役、日本ビロード監査役、滋賀銀行取締役などを務めた[4]。
脚注
注釈
- ^ 『滋賀県人物名鑑 上巻』32頁では6月12日。
出典
- ^ 『47都道府県別 日本の地方財閥』160頁。
- ^ a b c d e f g h 『滋賀県人物名鑑 上巻』32頁。
- ^ 『官報』第8485号、明治44年9月30日。
参考文献