西川幾

にしかわ いく
西川 幾
生年月日
没年月日 1905年
本名 織田いく
出身地 日本の旗 日本 尾張
尾張藩士・織田弥三兵衛信久
養女・西川嘉義[1]
備考
 名古屋西川流名取り第一号の舞踊家

西川 幾(にしかわ いく、 - 1905年(明治38年))は、尾張出身の名古屋西川流舞踊家。本名、織田いく。幾とも記される。初代西川鯉三郎を名古屋に招いた一番弟子で、1863年(文久3年)名取(苗字免許)第一号にして、名古屋西川流の柱であった[1][2]。養女は、西川嘉義(織田かぎ)。

人物

江戸時代、織田いくは尾張藩士織田弥三兵衛信久の長女で、夫は元尾張藩士織田車友(おだしゃゆう)。車友は俳人で通称を忠右衛門、尾張藩の大番組に属した[3]

織田いくは踊りを初め藤間勘十郎に学び、1841年(天保12年)名古屋に西川鯉三郎を招いた。1860年1月19日、35歳で鯉三郎が「御免踊指南」の公許を得て(西川鯉三郎免許の跡)[2][3]、織田いくは名古屋西川流」創流を支援して弟子となる。1863年(文久3年)名取(苗字免許)第一号「西川幾」となって、名古屋西川流の柱となる[4]

1872年(明治5年)、尾張藩名古屋城東の飯田町16番の父・士族竹村光慶、母・ゆきの娘・かぎを9歳で養女にする[5]。かぎの祖父は尾張藩士で俳人竹村鶴叟、弟妹は誠也、まり、くめ。鶴叟の妹リオは、坪内逍遥の祖母である[6]

幾は嘉義に踊りを教えるとともに、幾が鯉三郎の稽古場に通うのに同行させ、1875年(明治8年)には12歳で名古屋西川流に正式に入門させて[4]、1877年(明治10年)「西川嘉義」の名取りとなり[7]、1892年(明治25年)独立して[8]、1896年(明治29年)「西川嘉義丸門人舞踊温習会」を主宰した[5]。嘉義は、美人舞踊家となり、名古屋西川流の名も広まる。

1899年(明治32年)西川鯉三郎没。まもなく自身病気にかかり稽古を休む。原因は弟子の席順から起こった名古屋西川流一門のもめごとであるという[9]。西川嘉義と「合議制」を持ち出して対抗した幾の弟子西川石松[4]によって、鯉三郎の跡目争いが起こり、幾・嘉義派と石松派が正面衝突した。

1905年(明治38年)幾が死去[8]。翌1906年(明治39年)御園座で追善供養会を催し、嘉義が「面影」を舞った[9]

1921年(大正10年)3月21日夜半、娘の西川嘉義は58歳のとき、稽古場で自ら命を絶った[10]。全国的に著名な美人舞踊家で、士族織田氏の娘である西川嘉義が自殺したことで、名古屋西川流一門として大きなトラブルとなり社会的にも知られたため、1899年に初代鯉三郎亡き後は40年以上も家元空位であった。鯉三郎の名跡も40年間継がれなかった。

名古屋市の八事興正寺に母娘の記念碑がある。

脚注

  1. ^ 北見昌朗. “愛知千年企業 大正時代編 <コラム>日本国中を席巻した“名古屋美人””. 北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所. 2022年7月4日閲覧。
  2. ^ 田中加代. “日本の伝統芸能における「芸」の伝承に関する教育思想史的考察 -日本舞踊家西川鯉三郎の芸道教育の系譜および特色をめぐって-”. 愛国学園短期大学. 2022年7月4日閲覧。
  3. ^ 名古屋市役所 1981, p. 418.
  4. ^ a b 長田若子 2012, p. 83.
  5. ^ a b 長田若子 2012, p. 63.
  6. ^ 長田若子 2012, p. 45.
  7. ^ 尾崎久弥 1971, p. 59.
  8. ^ a b 尾崎久弥 1971, p. 58.
  9. ^ a b 長田若子 2012, p. 73.
  10. ^ 尾崎久弥 1971, p. 57.

参考文献

  • 長田若子 編『ホットマインド 名古屋の宝生流能楽師鬼頭嘉男が受け継いだもの』ブックショップマイタウン、2012年1月1日。 
  • 名古屋市役所 編『名古屋市史人物編 下巻』(1934年5月28日川瀬書店発行の復刻版)国書刊行会、1981年10月20日。 
  • 尾崎久弥『西川嘉義ー坪内逍遥を悔しがらせた最大級ー(名古屋芸能史 後編第30章)』名古屋市教育委員会〈名古屋叢書54〉、1971年12月20日。 
  • 「西川流外伝天才舞踊家 西川嘉義」名古屋郷土文化会 / 服部鉦太郎
  • 『日本の舞踊』小寺融吉、1941年5月15日、創元社

関連項目

外部リンク