西川 宏道(にしかわ こうどう)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。
経歴
西川恒山の子。文政元年(1818年)部屋住みから御役所見習となり、文政2年(1819年)金蔵役となった。文政4年(1821年)学問出精のため定役格となり、文政5年(1822年)江戸上納焼金宰領として江戸に赴任し、佐渡への下金宰領を命じられ、同年中に帰郷した。文政6年(1823年)米蔵役、文政8年(1825年)銅稼掛並役助、同年銅稼掛並役、文政10年(1827年)定勘定役助、文政11年(1828年)学問所定役兼地方掛。
天保元年(1830年)前年分地方・銀山方勘定仕上江戸詰御用として江戸に赴任中、父西川恒山が死去したため、跡を継いだ。天保2年(1831年)帰郷し、目付役助兼学問所定役、天保4年(1833年)目付役、同年学問所定役、天保7年(1836年)公事方役兼学問所定役。天保8年(1837年)病気のため退職し、11月25日病没した。
子孫
- 西川儀太夫功
- 通称は内藤内。安政元年(1854年)3月21日41歳で病没。
- 西川儀一宏遠
- 初名は栄蔵。北海道亀田郡銭亀沢村に渡り、明治24年(1891年)10月23日59歳で病没。
- 西川秋三宏器
- 西川明雅の子。通称は藤蔵・包之助、名は功?、字は士業、号は容所。天保11年(1840年)佐渡奉行久須美祐明の下で目付役を務めた。明治16年(1883年)5月20日病没。
脚注
参考文献