蜷川 元勝(にながわ もとかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士。毛利氏の家臣で長州藩士。
生涯
天正18年(1590年)、毛利氏家臣の蜷川元親の子として生まれる。
文禄元年(1592年)から始まる文禄の役で輝元に従って朝鮮へ渡海した父・元親が、文禄2年(1593年)に戦死したため、元親に与えられていた336石余の地と家督は、文禄3年(1594年)4月1日に5歳の元勝が相続した。なお、元勝が幼少であったことから、文禄2年(1593年)9月11日に輝元は元勝の母方の祖父である佐世元嘉に書状を出し、元親の跡目は元親に継がせるので、後家となった元嘉の娘に言い聞かすよう伝えている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏が防長2か国に減封されると、元勝の知行も336石余から200石に減らされた。
慶長9年(1604年)3月3日、輝元の加冠を受けて元服し、「元」の偏諱を受けて「蜷川新三郎元勝」と名乗る。また、慶長14年(1609年)12月30日には「右衛門」、元和4年(1618年)には「四郎左衛門尉」の官途名を毛利秀就から与えられた。
寛永4年(1627年)8月7日に38歳で死去した。家督と200石の知行地は、寛永6年(1629年)に子の就之が8歳で相続した。
参考文献