萱場 玄 (かやば げん、1978年 〈昭和 53年〉10月13日 - )は、日本 の公認会計士 、税理士 。シンガポール の会計事務所CPA コンシェルジュ 代表。福岡県 福岡市 生まれ。血液型はA型。
概説
日本の公認会計士試合格後、2002年 に新日本監査法人 に入所し1か月後にあずさ監査法人 の初期の職員となるが2006年 に退所。その後、約2年間の無職時代を過ごすが、英語 を猛勉強して過ごす。2008年 に東京共同会計事務所 へ入所、2012年 に退所してシンガポール へ移住、TMFシンガポール のジャパンデスク責任者を歴任、2014年 にシンガポールの会計事務所CPA コンシェルジュ 社を創業。2019年 には、CPA コンシェルジュ社としてSingapore Enterprise 500のブロンズ賞を受賞。2019年4月 からシンガポール和僑会 の会長にも就任した[ 1] 。
略歴
生い立ち
1978年 10月13日 、福岡県 福岡市 生まれ。転勤族 であった父親 の仕事の関係で、3歳で東京都 清瀬市 へ引っ越し(清瀬市立第十小学校 )、小学校 3年生から名古屋市 名東区 へ(名古屋市立猪子石小学校 )、中学校 1年生の直前に大阪府 豊中市 (豊中市立第五中学校 )、兵庫県 、大阪市 内(関西大倉高等学校 )、と転校 を幾度となく経験する。
幼少期
少年時代は野球 、サッカー などスポーツ をこなし、小学校卒業まで成績も良い生徒だった。しかし中学2年生頃から「なんのために勉強するんだ?」という疑念を持ち始めたという。その後、成績は落ちてしまい、高校 では毎日早退 して遊びに出かける日々を過ごした。大学 受験は現役の時は10校受験したが全滅し浪人 、予備校 に所属するものの、3日ほどしか予備校に行かなかった。1年後に再び10校受験するも「国語1教科入試」という特別な試験で唯一合格した大阪にある桃山学院大学 に進学した。
大学時代
大学入学当初、生活はさらに悪化した。現役、浪人の2回分の大学受験料と1年間の予備校の授業料 に加え、大学の学費までも両親に頼っていた。それにもかかわらず、大学入学当初は、毎日パチンコ 及びパチスロ に明け暮れ、1年のうち360日パチンコ屋 に通う生活を続けていた。アルバイト に明け暮れる同級生達を横目にいわゆるパチプロ 状態で学生時代を過ごした。
人生の転機
公認会計士 を目指す。大学2年生の時、「このまま人生終わるのか」と自問した。未来を切り開くための一大決心であったが、厚さ5cmほどもある「資格一覧」を大阪市 北区 梅田 にある紀伊国屋書店 で購入し、簿記 3級を受けてから会計士試験に挑むことを決めた。人生最大の意思決定であった。
公認会計士試験に向けて
去年までパチンコに費やしていた360日をそのまま勉強時間に移行し、公認会計士の勉強に費やした。この時母親 は毎朝5時に起きて朝食をかかさずに作ってくれたという。その結果、大学卒業直後に公認会計士試験に合格、当時の新日本監査法人 に入所することができた。桃山学院大学 で初の公認会計士誕生ということで、大学から100万円の祝い金 をもらい、半分は親に渡した。公認会計士試験はいわゆる二発目合格で、一回目は短答式試験で不合格だった。大学卒業の半年後に当時の二次試験に合格したが、浪人 しているのでこの時24歳であった。
監査法人時代
2002年 に新日本監査法人に入所した直後、当時所属していた海外(KPMG )部門が独立しあずさ監査法人 を設立したため、あずさ監査法人の初期の職員となった。そのため、新日本監査法人在籍は1か月ほどである。その後、2006年 にあずさ監査法人を退所する。監査法人勤務時代は、主に製造業クライアントの会計監査に携わり、最終的には外資系クライアント や上場 会社の現場責任者も担当した経験がある。
英語の勉強を始める
海外に対し強い想いを抱き、英語 の勉強を始めた。その6年前にパチンコに、4年前に会計士の資格 取得のために費やしていた年間5,000時間を、今度は英語に使った。朝夜問わず合間を見つけては毎日英会話 に励んだという。監査法人を退社後、ニューヨーク のZoni Language Schoolに8か月ほど留学 した。アメリカ合衆国 での職を探すもビザ 取得が難しく日本に帰国。その後、2008年 に、東京共同会計事務所 に入所、海外案件担当を直訴し、積極的に英語ビジネスの環境に身を置くように心掛けた。
東京共同会計事務所へ
金融系の業務を数多く抱える東京共同会計事務所では、SPC決算 、SPC監査 、デューデリジェンス 、各種評価 、ストラクチャード・ファイナンス 、国際税務 、IFRS 、その他会計税務コンサル など、専門的な知識を要する数々の案件に携わった。学んだノウハウ は数え切れず、現在もビジネス会計 人としての大きな基礎となっているという。しかし監査法人同様、この業界の仕事は楽なものではなく、頭の片隅には常に、「いつかは海外に」という思いを持ち続けていた。
海外へ
30歳代になりしばらくした時、このまま日本 に居ていいのか、自問したという。一刻も早く海外、特にアジア に行くべきだと決心をする。その後、海外の現地事務所へ直接コンタクトをして求人状況を調べたり、新興国 の住環境調査のため現地視察に訪れたりと、移住先の選定と同時に、次の仕事を探し始めた。2011年 末には、ベトナム 移住を計画してホーチミン 視察したが、現地の生活環境と家族の未来を再検討して断念した。
最終的に決めた場所はシンガポール であった。2012年 に、友人から紹介を受け、TMF というオランダ の会計事務所のシンガポール支社へ参画。 TMFでは、良い意味で非常に多くのカルチャーギャップを感じた。初めての海外勤務であり、初めての外資系企業での勤務に言葉、文化 の違いに商習慣の違いなど、考え方が全く合い寄れない相手とのやりとりで多くあった。日本人 だけで構成されている日本での会社勤務では感じることのなかったグローバル企業 ならではの体験であった[ 2] 。
人物
自己分析は「地頭が良くないが努力が得意」「コミュニケーション 力は低いが分かりやすく話すのは得意」である。
世に出ていないウェブサービス を開発して失敗した経験や、コンサルボット の開発に失敗した経験がある。
オンラインサロン やKayaBAR(バーテン企画 )など、従来の士業がやらないような企画を考え実行することが得意。
2019年 にCPAC としてSingapore Enterprise 500のブロンズ賞を受賞[ 3]
2019年1月 に『ビジネスパーソンのためのシンガポール入門〜kindle版〜』を出版している。100時間を投下してゼロから書き上げた。
著書
2019年1月、ビジネスパーソンのためのシンガポール入門〜kindle版〜
脚注
出典