米田雄郎(よねだ ゆうろう、1891年(明治24年)11月1日 - 1959年(昭和34年)3月5日)は、大正・昭和前期の歌人。出生名、米田菊次[1]。本名、米田雄還[2]。同じく歌人の米田登は次男。
略歴
奈良県磯城郡川西村(現・川西町)の農家の長男として生まれる。尋常小学校卒業後、伯父が住職を務める香久山村の法念寺に寄寓。1907年(明治40年)、大阪市の上宮中学に入学。18歳より短歌を始め、若山牧水の添削を受ける。1911年(明治44年)前田夕暮の白日社に入社し、雄郎の筆名を使い始め、自由律短歌及び定型律短歌を作る。1917年(大正6年)には歌集「日没」を発行。
早稲田大学中退後、1918年(大正7年)滋賀県蒲生郡(現・東近江市)石塔町の浄土宗寺院・極楽寺住職となり、また高等小学校の代用教員も務める。綺田町の画家野口謙蔵と生涯の親交を結ぶ。1926年(大正15年)、滋賀県歌人連盟を結成。
1930年(昭和5年)には歌集「朝の挨拶」を、1935年(昭和10年)には歌集「青天人」を発行した。前田夕暮没後、1952年(昭和27年)「好日」を創刊、滋賀文学会設立。1956年(昭和31年)歌集「忘却」を発行。1959年(昭和34年)68歳で没。
遺歌集
代表歌
- 村人にお茶をくんであげる、おぼんの上のさくらの花びら
- しづやかに輪廻生死の世なりけり春くる空のかすみしてけり
脚注