米田 穣(よねだ みのる、文久4年1月12日[1](1864年2月19日) - 大正10年(1921年)12月3日[2])は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。
経歴
加賀国石川郡松任町(現在の石川県白山市)出身[3]。加能新聞社社長や大阪新報主幹を務めた[3]。また松任町会議員を歴任した[1]。
1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で4回の当選を重ねた。
1912年(大正元年)10月、松任町長に推されたがこれを辞退した[4]。、
脚注
- ^ a b 『人事興信録』
- ^ 『官報』第2810号、大正10年12月13日。
- ^ a b 『衆議院要覧』
- ^ 『松任町史』198頁
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 『衆議院要覧 下巻 大正九年六月』衆議院事務局、1920年。
- 松任町役場『松任町史』松任町役場、1941年。