狩野 永章(かのう えいしょう、宝暦11年(1761年) - 没年不詳)は日本の江戸時代後期に活動した京狩野に属する絵師。前名は景山守俊(洞玉)で、名は守俊、字は伯峯、号は洞玉。実子に京狩野9代目になった狩野永岳と、狩野永泰、孫に永泰の子・冷泉為恭がいる。
略伝
備後国出身。後に上京し京狩野家に入門し、狩野姓と永章の名をもらったと考えられる。京都の人名録『平安人物志』画の部には、文化10年(1813年)版、文政5年(1822年)版、文政13年(1830年)版の3度掲載されている。更に、文化10年版と文政5年版の記述より、この間に法眼位を得ているのがわかる。息子の永岳は京狩野に新風を起こし活躍した絵師であるが、その影には父・永章の支えがあったと想定される。
作品
作品名
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技法
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形状・員数
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寸法(縦x横cm)
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所有者
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年代
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落款
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印章
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備考
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龍図
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眞念寺(近江八幡市)(滋賀県立近代美術館寄託)
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1827年(文政10年)
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法眼洞玉筆
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「狩野永章號洞玉斎」白文方印・「山響」朱文方印
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本図と下記の「天下和順図」は元は眞念寺書院襖絵で、両者は裏表になっている。
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天下和順図
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眞念寺(近江八幡市)(滋賀県立近代美術館寄託)
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1827年(文政10年)
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「狩野洞玉斎(以下不明)/行年六十七歳筆」「文政十丁亥之夏應需/□□眉間毫翁所畫」
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「狩野永章號洞玉斎」白文方印・「山響」朱文方印、印文不明関房印・印文不明朱文方印
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「天下和順図」とは『無量寿経』の一節を絵画化したもの。眉間毫翁とは高田敬輔の号の一つで、永章は敬輔の絵を参照して本作を描いたと考えられる。
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群猿図天袋貼付
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妙心寺春光院
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赤壁図襖
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妙心寺大雄院
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法橋洞玉
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雲龍図
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個人[1]
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脚注
- ^ 『狩野派と名古屋城四〇〇年』名古屋城管理事務所、2010年、第20図。
参考文献
- 京都文化博物館学芸課編集 『近世京都の狩野派展』 京都文化博物館、2004年、p.216
- 大原由佳子 「狩野永章筆「龍図」「天下和順図」について」『滋賀県立近代美術館 平成30年度 研究紀要』 2019年3月30日、pp.82-71
関連項目