浜田 杏堂(はまだ きょうどう、明和3年(1766年) - 文化11年12月22日(1815年1月31日))は江戸時代中期後期の画家・漢方医。
本姓は名和氏。名は世憲、字は子徴・子絢、号は杏堂・痴仙。通称を希庵という。大坂の人。
略伝
幼いときに儒医の浜田家の養子となり、長じて名医と評された。医業の傍ら池大雅の門人・福原五岳に就いて画を学び、中国元・明の花鳥画・山水画を研究[1]し一家を成した。また書は行書に優れ、詩文を能くした。木村蒹葭堂・森川竹窓・篠崎小竹・十時梅厓ら大坂の文人や江戸の谷文晁・釧雲泉などと交流している。
享年49。高津中寺町法雲寺に墓所がある。
作品
刊行物
- 校訂『江邨銷夏録』(中国画論書)
- 跋文 谷文晁模『漂客奇勝』
脚注
出典