柏田盛文

柏田 盛文
かしわだ もりぶみ / もりふみ
生年月日 (1851-04-23) 1851年4月23日嘉永4年3月22日
出生地 薩摩国鹿児島郡平佐村(現・鹿児島県薩摩川内市平佐
没年月日 (1910-06-20) 1910年6月20日(59歳没)
出身校 慶應義塾
所属政党 同志倶楽部
称号 従四位勲四等
配偶者 須麻(柏田六右衛門次女)
子女 毛里(高木正七妻)、哲男、国男、恵美、真男、ふみ(原田耕一妻)、ちせ
親族 恕兵衛(父)

選挙区 鹿児島県第4区
当選回数 4回
在任期間 1892年2月15日 - 1898年6月10日

在任期間 1900年9月8日 - 1903年2月27日

在任期間 1899年4月7日 - 1900年9月8日

在任期間 1897年4月7日 - 1898年1月22日

在任期間 1883年8月 - 1887年4月

その他の職歴
鹿児島県会議員
(1880年2月 - 1887年)
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柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月23日嘉永4年3月22日) - 1910年明治43年)6月20日)は明治時代の日本の政治家教育者は天颷。

鹿児島県会鹿児島県議会の前身)議長、第四高等中学校金沢大学の前身の一つ)校長、衆議院議員文部次官千葉茨城新潟の各県知事を歴任した。

経歴

薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現在の薩摩川内市平佐町)出身の武士であり[1]、部屋には東郷平八郎から送られた日本刀が飾ってあった。

鹿児島時代は漢学を修め武芸に秀でていた。薩長土の御親兵を務め上京。小松原英太郎美澤進鎌田栄吉神津国助らと同志で、1874年(明治7年)慶應義塾で同窓の薩摩藩士・奥田直之助と学び、在学中から曙新聞に政策論を発表し、そうした関係で国会期成同盟会員となる。1881年(明治14年)に慶應義塾を卒業して、帰郷し鹿児島へ戻り県会議員になる。後に中江篤介西園寺公望らと『東洋自由新聞』を創刊し自由民権運動を主張。自由党創立時には幹事として敏腕をふるった。1887年(明治20年)旧制第四高等学校校長となり衆議院議員、千葉県知事を経て文部次官に。その後、茨城県知事、新潟県知事も務めた。

栄典

著作

  • 『官余三昧』 1907年11月
  • 『天飆遺響』 柏田哲男編、1911年6月

脚注

  1. ^ 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 1001.
  2. ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
  3. ^ 『官報』第5833号「叙任及辞令」1902年12月11日。

参考文献

  • 柏田盛文氏」(三田商業研究会編纂 『慶應義塾出身名流列伝』 実業之世界社、1909年6月)
  • 川内郷土史編さん委員会『川内市史 下巻』川内市、1980年。 

関連文献

  • 柏田盛文君之伝」(大久保利夫編述 『衆議院議員候補者列伝 一名帝国名士叢伝』 六法館、1890年3月)
  • 柏田盛文」(『人事興信録』 人事興信所、1903年4月)
  • 入来院貞子 「柏田盛文について」(『千台』第32号、川内郷土史研究会、2004年3月)
  • 小川原正道自由党幹事柏田盛文小伝」(『近代日本研究』第21巻、慶応義塾福沢研究センター、2005年3月、NAID 120000800918

外部リンク

公職
先代
小山健三
日本の旗 文部次官
1898年 - 1899年
次代
奥田義人
先代
川越進
鹿児島県会議長
1883年 - 1887年
次代
西彦四郎