春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたべ みのる)、1924年10月9日 - 1991年10月22日)は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』などが有名である。
父・鬼佐久は農業を母・キヨに任せて蕎麦打ちの行商をやり、キヨは小学校で週2、3度裁縫を教え、夜は賃仕事の仕立物に精出して家計を助けていた。父は尺八を、母は三味線を嗜んでいた。父は蕎麦打ちの名人で、母は当地の花嫁衣装を一手に引き受けるほどの和裁の名手でもあった。春日には妹二人のほかに「ほとんど記憶にない」異母兄姉6人、異父兄姉が4人いた。
1930年に八幡村立八幡尋常小学校へ入学するが、この時期は「歌のうの字も知らない[2]」状態で、人からうまいといってほめてもらった記憶もなかった。この頃、村に時折来る旅芸人の少年たちに憧れ、太神楽の一座に入ることを夢見るが、母の反対にあって断念。尋常小学校時代は機械作りの好きな理系少年で、本人曰く「そのころでは、ごくありきたりの腕白坊主」であったが、当時の校友によると「大変な腕白」であった。
1937年に旧制福島県立会津中学校へ入学し、片道1時間をかけての汽車通学中にエクボの目立つ少年として女学生たちの注目の的となる。在学中に町で見た『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』が「えらく流行っている」のを知り、ラジオでも聞き覚えて口ずさんだところ、父に叱責されるが、懲りずに学校で広めて仲間と大合唱。しかし、歌に関してはそれ以外は「相変わらず、これといった話題もない」ままに過ぎ去る。
秋に狭心症の悪化により父が死去。春日曰く、父・鬼佐久は「そりゃ、もう実に、名前のように厳格でこわい人」で、残るのは叱責された記憶ばかりであった。1939年3月に稼ぎ手が一人となった家計の負担を減らすため、旧制会津中学を中退し、母の心づくしの10円札2枚を手に上京。
6月にすでに貴重品であったおはぎを奢られに友人宅に徒歩で向かう途中、浅草六区を初めて通り、常磐座でクラシックの正統派・藤山一郎のステージを見ておはぎの味も記憶に残らないほどの衝撃を受け、音楽で身を立てようと思い決める。少年時代の田舎廻りの旅芸人への憧れが初めて見た歌謡ショーで目を覚まし、歌手になること以外に我が進むべき道はないと決めてしまった。この歌謡ショーの出演者は藤山のほか、ハットボンボンズ、田谷力三、笠置シヅ子等、指揮は服部良一という顔触れであった。このショーから受けた感動に加え、多くの人を集め、魅了する存在になることが「今の貧しさから抜け出す近道だ」と考えたのもあった。早速受けた東洋音楽学校の試験にも合格し、兄夫婦の反対を押し切って器楽科に入学。器楽科を選択したのは音楽教師の免状がとりやすいと聞き、「先生の資格があれば、将来、生活の安定はたやすい」と考えたためだが、ほどなく声楽科に移る。学ぶうちに歌の魅力に取り憑かれ始めるが、学徒徴用令により、暮からは三鷹の中島航空機製作所通いの身となる。流行歌の歌い方を身につけるべく、東京声専音楽学校に転校。転入に際して受けた試験では、「いい声してますね、渡部くん」と褒められ、ムーラン・ルージュ新宿座で初舞台を踏むが、洋楽は敵性音楽として禁じられ、僅かに歌えるのは軍歌ばかりの状況が続く。
秋頃にはかねて恐れていた召集令状がついに届き、卒業後は会津若松陸軍第29連隊に入隊。半年の訓練の後に広島に移動し、宇品港からフィリピンへと向かう途中で座礁。台湾で足止めとなり、その地で敗戦を迎える。
1945年11月に復員すると、終戦後の1946年春に一旦帰郷して会津の運送会社に当座の職を得るが、10月半ばに「何をするにも、やっぱり東京だ」との思いに駆り立てられて再上京。その後はムーラン・ルージュ新宿座に戻り、渡部勇助の名で本格的に歌手活動を開始。1947年7月にキングレコードの第1回歌謡コンクールに応募し、細川潤一作曲の『涙の責任』を歌う。2000人を越す応募者の中から男性としては2人[注釈 1]のみの合格者に入り、準専属歌手となる。「澄んだ美しい高音」に注目したキング専属の作曲家である細川が指導を買って出、レッスン室に通う日々が続く。歌川俊の名で準専属歌手となり、これを機にムーラン・ルージュを退団。準専属歌手は無給待遇であったため、新人の登竜門といわれた新宿の聚楽への月に2、3度の出演以外で収入の道はなく、衣食にも事欠く暮しが続く。少しでも早く稼ぐため、当時大流行のジャズを学ぼうと横浜に行く。元ジャズシンガーの米軍将校夫人に渡りをつけ、下働き兼生徒とはなったものの、ジャズは「肌に合わない」と悟る結果に終わる。
当座の勉学資金を稼ぐため、進駐軍のPX商品を歌謡関係者に売る闇商売に手を染める。重なる失意の中で秋に一旦帰郷はするが、暮に再び上京、再び聚楽の舞台に立つ。1949年春に高橋掬太郎作詞、上原げんと作曲の『燕来る頃』で初のテスト吹き込みをするが、新譜会議で不採用になる。オーディション合格組の男性がワンコーラスずつ歌う上原作曲の『ラッキーボーイ』もまたお蔵入りとなり、赤貧の日々はさらに続く。お蔵入りの理由としては、会津訛りが強くて低音が不十分、江口夜詩には「声がどうも華奢」と評された。他の専門家にも「唱歌みたい」「声に艶がない」と貶された。作詞家の矢野亮曰く、当時のキングでは岡晴夫・小畑実・林伊佐緒等のベテラン勢に加え、津村謙・若原一郎と高音の美声が魅力の有望な若手も活躍中で、新人・渡部実にまでは手がまわらなかった。
また、この年の夏にはキングに内紛があり、師の細川が人員整理の対象となった。それに加えて、戦後の復興途上でレコード界は物資が不足し、レコード屋の多くも戦災から立ち直っていなかった。春日はその後、藤山一郎のレコードを買い込んで日本語の発音を自ら猛特訓したほか、雨の日も風の日も多摩川の河原で発声練習をした。改めて専属となり、毎日舞台に出るようになった聚楽で、ピンチヒッターとしてたまたま出演した江口の門下生である桧坂恵子[注釈 2]と知り合い、意気投合。細川の一身上の都合からレッスンを継続できなくなり、やがて恋仲となった恵子と細川の仲介により、江口に師事。江口の家に毎日のように通い、掃除をしたり肩を揉んだりしながら、曲を作ってもらえるよう願い続けた。家出を決行した恵子と、鍋一つない下宿で事実上の結婚生活をスタート。この頃、先輩歌手・三門順子の前座歌手となり、鞄持ち、写譜、時にはアレンジ係を兼ねての地方公演生活が続くが、心無い野次を飛ばされて一曲も歌えないことも少なくはなかった。
1952年春に恵子の妊娠が判明し、家族のために歌の道をあきらめて新聞社に就職しようとするが、履歴書を見た恵子に「歌をやめたあなたなんて、魅力もなにもないわ」と猛反対されて撤回。8月に恵子の熱意と本人の努力に心を打たれた師、江口が、春日のために新曲『赤いランプの終列車』を作曲した。
自宅でテープに吹き込み、キングレコードに改めて春日を推薦する。闇屋の経歴、過去の女性関係が問題視されるなど、紆余曲折を経てなんとかレコード化、11月に発売。江口曰く、「キングレコードはこの曲を序列では10枚の一番最後としていた位であまり高く取ってはいなかった」。当時の春日の声、唱法は岡と相当に似ていたらしく、改名するにあたっての名付親は作詞家の藤間哲郎であった。たまたま岡宅に祀られている春日大明神の神棚を目にしたことから、「岡さん以上の歌手になれという意味を含めて」春日とし、末広がりの八の字を「運が開くよう」にと名に入れた。1953年に『赤いランプの終列車』が名古屋から売れ出し、やがて全国的な50万枚[3]の大ヒットになる。三門の前座歌手を卒業し、秋からは当時大人気の先輩歌手であった岡の前座を務めるようになり、生活のメドがようやく立つ。この年の吹き込みは中ヒットとなった『街の燈台』『雨降る街角』を含む12曲で、青木光一・三浦洸一と並ぶ歌謡界の若手三羽烏として注目を集めはじめる。名古屋からヒットしたのは大須のレコード屋の主人が、なかなか面白い歌手であると気に入って宣伝し出したのがきっかけで、この主人は女性で、手書きのポップまで作って宣伝してくれたとある。
1954年8月には移籍した岡の代打で歌舞伎狂言『与話情浮名横櫛』に登場する、お富さんと切られの与三郎の掛け合いを歌にした『お富さん』を吹き込む。諸事情から練習時間は僅か1時間であったらしいが、発売3か月で30万枚[4]、最終的には125万枚を売り上げる空前の大ヒットとなる[5]。同年末の第5回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした、子供たちまでが意味も知らぬまま「いきなくろべえみこしのまつに」と口ずさむなど、社会現象化。一躍人気スターの仲間入りをする。当初は代打として若原一郎が想定されていた。
この頃春日はラジオ番組で「お富さんなんかきらいだ、吹き込みたくなかった」という意味の失言をしてしまい社内に物議を醸し、四方に陳謝してようやく一件落着となる。年が明けて1955年も続く『お富さん』ブームの中、「俺とは本来は違うもの」を歌っているという思いは消えず、周囲の「一曲が大ヒットし過ぎるとあとが続かない」「『お富さん』の消えるときが春日八郎の消えるとき」等々の声にも悩まされる日が続く。11月に『別れの一本杉』を発売。望郷演歌の嚆矢ともいえるこの歌は、1年半ぶりに60万枚[6]の大ヒット、まだ売り出し中の船村徹を有名にさせた作品にもなった。
それまでの流行歌とは質の異なる望郷歌謡をたて続けにヒットさせ、流行歌の衰退期において「演歌」という新天地を築いた。春日も歌手としての揺るぎない地位を確立し、『別れの一本杉』は生涯の代表曲の一つとなる。この年には「平凡」の人気投票男性歌手部門に初登場し、いきなり2位以下(小畑、田端義夫、津村、岡、藤山)に大差を付けて第1位に輝く。『別れの一本杉』はキング社内の廊下で、一面識もなかった船村に呼び止められ、是非にと乞われてギター伴奏で聞いた3曲のうちの1曲で、即座に「歌わせてくれませんか」との流れになる。三橋美智也とのカップリング・レコードの企画が持ち上がりはしたものの、決まったのは三橋の曲『君は海鳥渡り鳥』のみで、春日の曲が難航。お蔵入りのものの中から「企画とは別の流れですでにレコーディングを済ませてあった」この曲が浮上し、10月20日に再吹き込みとなった。当初のタイトルは『泣けたっけ』であったが、掛川尚雄ディレクターが「歌詞も含めて『泣けた』が多過ぎる」と現在のものに変更。この年は多忙な生活からくるストレスの発散と健康維持のためと、歌謡界での馬主のはしりであった岡の影響から馬主になる。1967年には、個人事務所として春日プロモーション(現:春日プロ)を創立した。
八郎の直後に同じキングから三橋、更には三波春夫、村田英雄、島倉千代子らが登場。美空ひばりも演歌を歌い出し、後に演歌の女王と称されることとなる。1960年代には北島三郎、都はるみ等が台頭し、演歌の全盛期をむかえる。このような演歌台頭の流れから、八郎を演歌歌手の第一人者と見る向きが多い。音楽ジャンルとして演歌が定着すると、長年にわたり演歌界をリードした。
なお、八郎の代表作の1つ『お富さん』は、1978年11月にアメリカのファンクグループのエボニー・ウェッブによって『ディスコお富さん』(キングレコード/SEVEN SEAS)としてカバーされてリバイバルヒットし、1979年1月時点で25万枚を売り上げた[7]。制作を担当した河野次郎は、歌詞を覚えてもらうのに一苦労したと述懐している。『ディスコお富さん』発売の1ヵ月後に、20万枚突破記念パーティーが開かれ、作曲の渡久地政信、春日本人も出席し、ディスコを踊った。渡久地政信は「こんな再生の仕方もあるんだね」と感心していた[8]。
晩年の1988年には静岡県・熱海にて親交の深かった三橋、村田と共に「三人の会」を結成、三人揃ってのチャリティー・コンサートを開催するなど、低迷した演歌の活性化に力を注いでいた。だがこの頃になると春日は体調を崩しがちとなり、段々と体が細くなっていく兆候が見られた。それでも『昭和』から『平成』に元号が変わった1989年の末には、第40回NHK紅白歌合戦(第1部)に1978年・第29回以来、『お富さん』で11年ぶり21回目の紅白出演を果たしたが、これが自身生涯最後の紅白出場となった。さらに1990年頃、清水アキラが顔中に沢山セロハンテープを貼り付けて、春日八郎の物真似を披露した事でも話題となる。『ものまね珍坊』で清水と初共演した際、春日は「俺ってこんな顔してるのか?」と苦笑いしながら感想を述べていた。
1991年6月、左大腿部腫瘍の摘出手術のため入院。「三人の会」のコンサート等に出演できず、三橋・村田に対して病床からメッセージを送ったこともあった。一旦は退院、死去1ヶ月前の同年9月6日に中野サンプラザでのキングレコード60周年コンサートに出演し「長崎の女」を歌唱したが、これが生涯最後のステージとなった。当日は車椅子で会場入りしたがステージ登場から歌い終える最後まで、立って杖無しで自力で歩いてやりきった。テレビ東京系列で当日の映像も遺されており、追悼の際には放映されることもある。その後体調が悪化し再入院、「三人の会」結成から僅か3年後、そして生涯最後のステージから僅か1ヶ月後の1991年10月22日20時38分、肝硬変と心肺不全により東京都新宿区の東京医科大学病院で死去[1]。67歳没、生涯現役であった。同27日には香川県高松市でリサイタルがある予定であったが、三橋が代役を買って出て、「赤いランプの終列車」を涙まじりに熱唱している[9]。
デビュー後に吹き込んだ楽曲は通算千数百曲、レコードの総売上は7000万枚を超す[10]。
故郷である会津坂下町への想いも強く、幼少時に通った町立八幡小学校にピアノを寄贈し校歌を作曲、町立第二中学校の校歌、応援歌も作曲した。また会津坂下町民歌、会津坂下音頭を作曲し自ら歌いレコーディングするなど町の発展に尽くした。会津坂下町も八郎の功績をたたえ、同町の船杉地区(一本杉と地蔵が実在する)に「春日八郎記念公園・おもいで館」を建設。遺品の展示コーナーやカラオケコーナーがあり、八郎の作品の品揃えも日本一となっている。また2003年には会津坂下駅前の広場に春日の銅像を建立し、さらに2007年10月13日には『赤いランプの終列車』の歌碑も建立された。2005年10月5日、会津坂下駅において駅舎の壁と八郎の銅像がスプレーにより落書きされる事件が発生した。このニュースはテレビ番組など多くのメディアで取り上げられた。
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