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愛新覚羅 奕劻(あいしんかくら えききょう、アイシンギョロ・イクワン、満州語:ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ
ᡳ ᡴᡠᠸᠠᠩ、転写:aisin-gioro i-kuwang、道光18年2月29日(1838年11月16日)[1] - 1917年(民国6年)1月28日)は、清末期から中華民国初期の皇族。乾隆帝の曾孫で咸豊帝は又従兄に当たる。
生涯
輔国公(中国語版)綿性(中国語版)(慶僖親王永璘(中国語版)の六男)の長男として誕生、伯父の鎮国公綿悌(中国語版)の養子に入る。
家族
清の皇族は5人まで妻を持つことができたが、奕劻には6人の妻があった。このことからも彼が親王の中でも特別な地位にいたことが分かる。
6人の男子がいたが、三男・四男・六男は夭逝した。
- 長男:載振(中国語版)、母は第1側室のヘギャ(合佳)氏。1903年の第5回内国勧業博覧会出席のため来日した。
- 次男:載𢱿、母は第4側室のリウギャ(劉佳)氏
- 五男:載掄、母は第4側室のリウギャ(劉佳)氏 - 妻は山東巡撫の孫宝琦の娘。
この他に12人の女子がいたが、その中で三女・四女は常々西太后に付き従って遊んだり写真に写ったりしている。娘の1人は西太后の弟である承恩公桂祥(中国語版)(グイシャン)の息子に嫁いでいる。
評価
過去の評価は「愚昧な汚職官吏」というものであった。しかし奕劻は清末の新政においてどちらかと言えば積極的な推進派であり、例えば沈家本の法制度構築を支持したりしている[3]。
参考文献
脚注
- ^ 『道光十二年至宣统三年王公大臣年歳生日表』
- ^ 郭廷以『中華民国史事日誌』
- ^ 江庸『趨庭随筆』p.61。黄源盛『法律継受与近代中国法』第三章