平松時厚

 
平松 時厚
明治十二年明治天皇御下命『人物写真帖』<上>より
時代 江戸時代末期-明治時代
生誕 弘化2年9月11日1845年10月11日
死没 明治44年(1911年8月22日[1]
官位 従二位
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 平松家
父母 父:平松時言
兄弟 時厚、時幾、小野時敍、小松行正
時陽、時冬、時安、時賢
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平松 時厚(ひらまつ ときあつ)は、幕末公家、明治期の官僚検察官新潟県令元老院議官貴族院子爵議員錦鶏間祗候などを歴任。従二位勲三等子爵平松家第13代当主。

経歴

少納言・平松時言の長男として誕生。安政2年(1855年)に元服し昇殿を許され、甲斐に任じられた[2]元治元年7月19日1864年8月20日禁門の変に際して長州藩に加担し参朝停止などの処分を受け、慶応3年1月1867年)に赦された[2][3]

戊辰戦争では慶応4年1月2日1868年1月26日)征討将軍仁和寺宮嘉彰親王に随行を命ぜられ大坂に出陣し軍事書記役・軍監を務めた。同年2月20日(3月13日)参与に就任。以後、軍防事務局親兵掛、弁事、三河国裁判所総督、三河国遠江国鎮撫使を歴任。同年6月29日(8月17日)政府軍慰労のため東下。明治元年10月14日(1868年11月27日)権弁事に就任。以後、岩代国巡察使、民部官副知事心得を務めた。明治2年6月2日1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄50石を永世下賜された。同年7月8日(8月25日)宮内大丞に就任[4]

明治3年6月19日1870年7月17日)第二次新潟県知事に就任。明治4年11月20日1871年12月31日)第三次新潟県が成立し初代県令に就任。新政府の政策を推進したが、大河津分水掘削工事の負担に苦しむ農民等による悌輔騒動が発生し、明治5年5月24日1872年6月29日)県令を免本官となった[5]

1876年12月淑子内親王祗候に就任。以後、宮内省御用掛、太政官内務部勤務、内務省御用掛、同省庶務局勤務、東京府麹町区長、宮内省編纂局勤務、同省宸翰御用掛、司法省御用掛、検事、東京控訴裁判所詰、大阪始審裁判所詰、大阪控訴院詰、長崎控訴院詰などを歴任。1884年7月8日、子爵を叙爵[4]

1890年6月12日、元老院議官に就任、同年10月20日の廃止まで在任し非職、同日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる[6]。同年7月16日、貴族院議員補欠に当選し貴族院子爵議員となり、死去するまで在任した[4][7]。墓所は青山梅窓院

親族

長男の平松時陽(1873-)は爵位を継ぎ、陸軍騎兵大尉[8]。娘の達子(1874-1937)は川上善兵衛の後妻となる[9]。同じく娘の尊覺(1877-)は近衞篤麿の養妹となり、その下の速子(1881-)は木下俊哲の妻となった[8]。実弟に小松行正がおり、その長女・祐厚(青山善光寺住職)と次女・誠厚(感応寺住職)を養女にしている[8]。15歳下の弟子と駆け落ちして世間を騒がせた尼僧の一条尊昭は孫(息子・時冬の子で一条実孝の養女)[10]

栄典

脚注

  1. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、420-422頁。
  2. ^ a b 『明治維新人名辞典』825頁。
  3. ^ 『幕末維新大人名事典』下巻、354頁。
  4. ^ a b c 「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 平松時厚」
  5. ^ 『新編日本の歴代知事』398頁。
  6. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  7. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
  8. ^ a b c 平松時陽 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  9. ^ 川上善兵衛略年譜株式会社岩の原葡萄園
  10. ^ 一条尊昭(読み)いちじょう そんしょうコトバンク
  11. ^ 官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。

参考文献

日本の爵位
先代
叙爵
子爵
平松家初代
1884年 - 1911年
次代
平松時陽