山田公足

山田 公足(やまだ の きみたり、生没年不明)は、奈良時代後期の女官氏姓は山田三井宿禰から山田、のち山田宿禰。位階従五位上

記録

天平勝宝7歳(754年)正月、山田一族は従五位下の山田比売島、従七位上山田広人ら7人が山田御井宿禰の氏姓を与えられているが[1]、この時に同時に改姓したものと思われる。

称徳朝天平神護元年(765年)正月、藤原仲麻呂の乱後の論功行賞で従六位下から従五位上に叙せられている。この日、白馬の節会の宴が開かれ、五位以上のものはこれに参加し、禄を与えられている[2]

その後、何らかの理由でに改姓され、不遇であったが、光仁朝宝亀元年(770年)11月、一族40人で宿禰に復し、続けて、従五位上に昇叙している。以降の記録は存在していない。

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

  1. ^ 『続日本紀』巻第十九、孝謙天皇 天平勝宝7歳正月4日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第二十六、称徳天皇 天平神護元年正月7日条

参考文献