尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 – 1932年(昭和7年)6月4日)は、日本の歴史家・実業家。陽明社の創始者。高知県出身。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した歴史家・尾崎卓爾の兄。
来歴
生い立ち
1889年(明治22年)1月17日、尾崎旦爾(手島熊吉)の三男として高知県安芸郡北川村大字野川896番地に生まれる。初名は「旦子(たんし)」のち、「子」がつくことによって女子を間違われるのを避けて「旦(たん)」と改名した。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。
1908年(明治41年)旧制高知県立安芸中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科(現・慶應義塾大学経済学部)へ進学。東京市芝区三田へ下宿。1913年(大正2年)3月31日、同校卒業。1919年(大正8年)5月、公文為之助の長女・米猪(よねゐ)と婚姻。
陽明社の設立
東京市芝区金杉川口町24番地に、株式会社陽明社を創業し出版業を手掛ける。社名は陽明学の理念から名付けられた。
1927年(昭和2年)、自由党員・今幡西衛らによって、京都円山公園に、坂本龍馬、中岡慎太郎の銅像を建設する計画が提起され「坂本中岡両先生銅像建設会」が組織されるとこれに賛同。銅像建設資金を得るため、今幡らが『雋傑坂本先生伝』を執筆。尾崎旦の弟・尾崎卓爾 は自ら執筆した中岡慎太郎の伝記をさらに増補改訂し、同年12月30日、『中岡慎太郎先生』として陽明社から出版した。
1929年(昭和4年)3月5日、『台湾に於けるバナナ沿革史』を著し出版。
同年4月8日、父・尾崎旦爾が逝去したため、同5月7日家督相続を届出。
1930年(昭和5年)1月26日、今幡西衛の媒酌により板垣守正の長男・正を養子にむかえる。
1931年(昭和6年)肺結核に罹患し転地療法を行うため、養子・尾崎正を今幡西衛へ預け、郷里近くの高知県安芸郡西浜へ帰省。
1932年(昭和7年)6月4日死去。享年43歳。墓は高知県安芸郡北川村野川にある。
尾崎旦の家督は、同年8月7日、養子・正が相続した。
家族
- 祖父:尾崎旦信(折蔵)
- 父:尾崎旦爾[1]
- 母:尾崎旦信長女
- 長兄:尾崎金馬
- 本人:尾崎旦
- 妻:公文為之助長女
- 弟:尾崎卓爾
- 弟嫁:中越十次郎長女
- 甥(弟の長男):尾崎博俊
- 甥(弟の次男):尾崎博雅
著書
- 『台湾に於けるバナナ沿革史』尾崎旦著、陽明社(日本)、1929年(昭和4年)3月5日発行
出典
- ^ 尾崎旦信の養子となる。前名は手島熊吉
- ^ 今幡西衛の媒酌により、尾崎旦の養子となる。実は板垣守正の長男
参考文献
土佐藩北川村郷士・尾崎氏当主 |
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宗家 |
- 尾崎旦蔵
- 尾崎旦世
- 尾崎旦法
- 尾崎旦幸
- 尾崎旦信
- (婿養子)尾崎旦爾-1929
- 尾崎旦1929-1932
- (養子)尾崎正1932-
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