小池 清(こいけ きよし、1931年8月10日 - 2012年4月28日)は、元アナウンサー。毎日放送勤務後、フリーアナウンサーに転身した。
来歴・人物
東京府東京市滝野川区(現在の東京都北区)田端出身。東京都立北園高等学校を経て、早稲田大学第一文学部英文科へ進学した。早大の同期には俳優の宇津井健(中退)や元読売ジャイアンツ選手の広岡達朗、元日本テレビアナウンサーの金原二郎らがいた。
大学卒業後の1954年4月に、新日本放送にアナウンサーとして入社した。当時の新日本放送はラジオ単営局で、同期のアナウンサーに藤本永治がいる。なお、新日本放送は1958年に「毎日放送」と改称し、1959年3月1日に、テレビ(以下「MBSテレビ」と略記)の本放送を開始した。
入社2年目の1955年には、ラジオ番組『近鉄パールクイズ』の司会に抜擢された。さらにMBSテレビでは、1963年10月から1983年9月までの20年間にわたって、同番組のノウハウを継承した『アップダウンクイズ』(NETテレビ(現在のテレビ朝日)系列一部局ネット⇒1975年4月からTBS系列全国ネット)に出演(当初は出題役、1964年4月5日放送分から2代目司会)した。司会時代には、オープニングの「ハワイへのご招待。10問正解して、さぁ、(夢の)ハワイへ行きましょう!」というフレーズ[1]と、臨機応変にしてスピード感あふれる進行で全国区の知名度と人気を得た。
その一方で、若手アナウンサー時代には、スポーツ中継にも出演した。MBSテレビがNET系列だった時期の『大相撲ダイジェスト』では大相撲春場所、1964年の日本シリーズ「南海対阪神」第3戦(大阪スタヂアム)ではラジオでそれぞれ実況を担当した。
1976年1月5日からは、『MBSナウ』(MBSテレビが初めて平日の夕方に編成したローカルワイドニュース)の初代メインキャスターに就任した。その後は、アナウンサーとしての活動を続けながら、アナウンス室長として『あどりぶランド』(放送局のアナウンサーが全員出演した日本初のテレビ番組)の誕生などに携わった。
1984年5月31日付の人事異動でアナウンサー室を離れたが、『あどりぶランド』には同年6月6日放送分、『MBSナウ』には同年9月末まで出演していた(後任のアナウンサー室長は同期入社の藤本)。その後は、異動先の秘書室で1986年まで室長を務めたのを皮切りに、報道局解説委員長や社長室長を務めた。1993年8月に毎日放送を定年で退職してからは、子会社のMBS企画で代表取締役社長や顧問を務めた。
2000年7月からはフリーアナウンサーとして、MBSテレビ『ちちんぷいぷい』のVTR紀行コーナー「佐川満男の前略、旅先にて」や、夏休み期間中の特別企画「ハッピーアワーたいそう」(2010年・2011年)でナレーターを担当した。「前略、旅先にて」の終了(2011年9月28日放送分)を機に同番組を降板するまで、ゆったりした口調で往年の名調子を披露していた。また、毎日放送の開局記念番組や特別番組にも、スペシャルゲストとしてたびたび出演した。『アップダウンクイズ』にちなんだ特別企画に登場したり、新日本放送時代やテレビ草創期の貴重な思い出話を披露した。
『ちちんぷいぷい』降板から約半年後の2012年4月28日、肺炎のため入院先の病院で死去した[2]。80歳没[3]。
出演していた番組
テレビ
ラジオ
以下はいずれも、毎日放送ラジオ(MBSラジオ)で放送された特別番組
関連人物
- 佐々木美絵(『アップダウンクイズ』の出題者で、アナウンサー時代の部下)
- 西郷輝彦(『アップダウンクイズ』の後任司会。)
- 八木治郎(急逝前日に放送された『アップダウンクイズ』が、本人にとって最後のテレビ出演となった。翌週の放送内で小池が訃報をコメント)
- 藤本永治(小池の同期アナウンサー。小池の後任でアナウンス室長を務めた)
- 斎藤努(アナウンサー時代の部下で、佐々木美絵の夫。小池の後を継ぐ形で『MBSナウ』のメインキャスターを務めた)
- 佐川満男
- 角淳一(アナウンサー時代の部下で、『ちちんぷいぷい』の初代メインパーソナリティ。小池と同時に同番組を降板した)
- 平松邦夫(元・大阪市長。アナウンサー時代の部下で、小池・斎藤と同様に『MBSナウ』のメインキャスターを長年担当)
- 島村俊治
- 児玉清(朝日放送『パネルクイズ アタック25』の初代司会者で、出身地が小池と同じ。2011年5月に77歳で没)
- 田中和泉(元TBS。小池と早稲田大学、JRN系列の同期、生年月日が1日違い、出身地も同じなどの共通点があり、後年には小池同様、役員も歴任。2020年1月に88歳で没)
脚注
外部リンク