天満 和人(てんまん かずと[1]、1911年〈明治44年〉11月3日[2] - 没年不明)は、日本の実業家、医師。産婦人科、天満医院長[1]。米子ゴルフ倶楽部社長[3]。
経歴
鳥取県米子市出身[2]。山内定次郎の二男[1]。9歳の頃に天満徳次郎の養嗣子となる[1]。米子中学校(現・米子東高校)在学中に養父が亡くなり、養母により育成される[1]。
松山高等学校理科乙類を卒業[4]。1937年、大阪帝国大学を卒業[1][5]。大阪帝国大学講師として8年間在職し、1943年に徳島医学専門学校教授、産婦人科を担当し、医育の傍ら教育に専念する[1]。
1945年に大戦に応召、軍医少尉に任官、鳥取陸軍病院に勤務する[1]。その間養母の死、徳島大空襲羅災等重なる災厄のため帰郷する[1]。1946年に現地において産婦人科医院を開業する[1]。
また米子市公平委員長、鳥取県西部医師会理事、家庭裁判所審判員、鳥取県柔道連盟顧問などを務めた[1]。
人物
趣味はスポーツ、読書[2]、将棋、柔道[1]。宗教は曹洞宗[1]。住所は鳥取県米子市博労町1丁目[1][2]。
家族
- 天満家
脚注
注釈
- ^ 1912年に刊行された『山陰実業名鑑』によると、天満徳次郎の地価所有高は「3127円19銭」である[7]。『国民日用便覧 明治43年刊』によると、「2000円以上4000円以下の部」に天満の名前を確認できる[8]。『米子経済九十年の歩み』によると、1916年(大正5年)の地主層(地価3000円から4000円の部)に天満の名前を確認できる[9]。
出典
参考文献
- 『商工重宝』商工重宝社、1908年。
- 多納佐三郎編『国民日用便覧 明治43年刊』報光社、1910年。
- 『山陰実業名鑑』帝国興信所米子支所出版部、1912年。
- 松山高等学校編『松山高等学校一覧 昭和9年度(第16学年度)』松山高等学校、1931 - 1935年。
- 大阪帝国大学編『大阪帝国大学一覧 昭和17年度』大阪帝国大学、1941 - 1943年。
- 日本医学百年史刊行会編『日本医学百年史』臨牀医学社、1957年。
- 『鳥取県大鑑』山陰日日新聞社、1958年。
- 米子商工会議所編『米子経済九十年の歩み』米子商工会議所、1981年。
- 新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会編『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。