天乙

天乙
初代王
王朝
姓・諱 子履
主癸
外丙

天乙(てんいつ、紀元前1600年頃)は、古代中国の王朝の初代。名は履。姓・諱を合わせ、子履(しり、拼音: Zǐ Lǚ; ウェード式: Tzu-Lwu)ともいう。殷墟出土の甲骨文占卜には、大乙、名は唐、成と見える。湯王(湯)、太乙、成湯、成唐とも呼ばれる。『詩経』商頌では武湯、武王とも呼ばれる。

それまでの勢力を制圧し中原の覇権を得て、に王都を築営した。

史書の天乙

史記』殷本紀などによると天乙はの最後のを追放し夏を滅ぼした。

桀は暴虐な政治を行い、人心は夏から離れていた。夏の臣であった天乙は伊尹の補佐を受け桀を攻め、これを滅ぼした(鳴条の戦い)。『書経』商書には桀を滅ぼす時に諸侯に向けて演説したとされる『湯誓』がある。

天乙は夏の文王武王と並び聖王として後世に崇められている。徳は高く鳥や獣にまで及ぶと言われた [1]

逸話

湯王が夏を滅ぼしたのち七年間も大日照りが続き洛川は枯れてしまった。そこで湯王は桑林まで出かけて神を祀り爪と髪を切り、みずからを犠牲として捧げる心で上帝に祈願した。するとたちまちのうちに大雨が降り国中が潤ったのであった[2]

脚注

  1. ^ 監修・春日井明『学習漫画 中国の歴史 人物事典』集英社、2018年10月、14頁。ISBN 4082482113 
  2. ^ 干宝 著、竹田晃 訳『捜神記』(初)平凡社、1992年1月、176頁。ISBN 9784582763225 

関連項目