大崎 義兼(おおさき よしかね)は、戦国時代の大名。室町幕府奥州探題。官位は従五位上・左京大夫。大崎氏9代当主。
略歴
大崎教兼の嫡男で8代当主・大崎政兼(まさかね、「政」字は8代将軍足利義政より偏諱を受けたもの)の子として誕生。幼名は彦三郎。
元服時に、9代将軍・足利義尚(義政の子)から偏諱(「義」の字)を受け、太刀を与えられた。長享2年(1488年)、大崎領内で反乱が起こると、一時的に伊達尚宗を頼って落ち延び、その援軍を受けて反乱を鎮圧するなど、当主としての力量に乏しい人物だった。
享禄2年(1529年)に死去。長男・高兼が家督を継いだ。
3男・直堅は、大崎満持の子・高清水持家から別れた高清水氏に婿入りしている(高清水定家(大崎教兼の子)の娘と結婚したか)[1][2]。
脚注
- ^ 古川市史編さん委員会編『古川市史』(古川市、2001年)
- ^ 狩野陸三『高清水物語』(高清水町史編纂委員会、1964年)
参考文献