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この項目では、古代中国の武将について説明しています。周建を称したことのある日本の室町時代の僧侶については「一休宗純」をご覧ください。 |
周 建(しゅう けん、? - 28年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。徐州沛郡の人。兄の子は周誦。
事跡
姓名
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周建
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時代
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新代 - 後漢時代
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生没年
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生年不詳 - 28年(建武4年)
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字・別号
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〔不詳〕
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本貫・出身地等
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徐州沛郡
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職官
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将帥〔劉永〕
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爵位・号等
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-
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陣営・所属等
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劉永→劉紆
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家族・一族
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甥:周誦
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後漢時代初期に梁王として中国東部に割拠した劉永配下の武将。周建は沛郡の豪傑として知られ、劉永が挙兵すると、その招聘に応じて配下に加わり、将帥として梁国周辺の攻略に貢献した。
建武2年(26年)、漢軍の討伐を受けて譙(沛郡)に逃げ込んだ劉永を救援するために、周建は同僚の蘇茂・佼彊と共に駆けつけたが、漢軍の蓋延に敗北し、周建と佼彊は劉永を守って湖陵(山陽郡)に逃げ込む。
建武3年(27年)4月、広楽城(梁郡虞県)を守備していた蘇茂が漢軍の大司馬呉漢の攻撃を受けたため、周建は救援に駆けつけたが、敗北して、2人で湖陵に退却した。このとき、漢軍に占領されていた劉永の旧本拠地睢陽(梁郡)が劉永に再び付いたため、周建と蘇茂は劉永を守って睢陽に移る。しかし、蓋延に包囲されて糧食が尽き、劉永・周建・蘇茂は脱出して酇(沛郡)へ逃れたが、劉永は部下に殺されてしまった。
周建と蘇茂は、劉永の子の劉紆を垂恵聚(沛郡山桑県)で梁王に擁立し、漢軍への抵抗を継続する。建武4年(28年)7月、漢軍の馬武・王覇に垂恵聚を包囲され、周建・蘇茂はこれを迎撃したが、最後は周建の兄の子の周誦が離反したために垂恵聚は陥落し[1]、周建は敗走中に死亡した[2]。
脚注
- ^ 『後漢書』劉永伝、王覇伝は建武4年中に陥落したとしているが、同光武本紀は建武5年(29年)2月の陥落としている。本記事では前者をとる。
- ^ 死因は不詳である。
参考文献
関連項目