古勒山の戦 (コロク・ザンのたたかい/ グレ・イ・アリン-) は、イェヘ率いる九部連合軍とヌルハチ率いるマンジュ軍がグレの山で衝突した明朝末期の戦役。
マンジュ・グルンとフルン (海西女真) 四部の間の力関係に変化が生じたことから、女真族統一の分岐点となったとされる。戦捷したヌルハチは「軍威大イニ震ヒ、(周辺国は) 遠キモ邇ちかキモ攝おそレ服したが」[1]った。
グレは、清太祖ヌルハチの祖父ギョチャンガと父タクシが、明の遼東総兵官・李成梁ひきいる官軍によって殺された因縁の地である。ヌルハチによって統一される前の建州部は主に建州衛、建州左衛、建州右衛、毛憐衛の四衛で構成され、右衛には都指揮使の王杲という人物がいた。グレ城はその王杲の居城で、明とハダの策応により王杲が殺害された後、子のアタイが居城とした。
アタイは度々明の辺塞を侵犯した為、ついに李成梁が官軍を率いてアタイを征討した。明の史料に拠れば、その先導を任されたのがギョチャンガとタクシであった。ところが、ギョチャンガにはアタイに嫁いだ孫娘がいた。明に忠義をつくして先導の役を務める傍ら、グレ城が官軍の攻撃を受ければ孫娘が危険にさらされてしまう。そこでギョチャンガはアタイに降伏を呼びかけようとグレ城に乗り込んだが、官軍はアタイ討伐に紛れてギョチャンガとタクシを殺害した。万暦11年1583のことであった。
明のために先導を務めた祖父を明の官軍によって殺害されたヌルハチは憤慨した。これは後にヌルハチが明征討を決意した際の「七大恨」の第一箇条に書き据えられた。
祖父を殺されたヌルハチは建州部を統一し、万暦15年 (1587) に満洲国マンジュ・グルン[2]を樹立したたことでフルン (海西女真) にとっての脅威となった。同19 (1591) 年に領土割譲を求めて拒まれたイェヘ東城主ナリムブルは、同21 (1593) 年6月にフルン聯合軍としてヌルハチ属領のフブチャ・ガシャンを襲撃した。しかしヌルハチが報復としてハダ属領のフルギヤチ・ガシャンを掠奪し、更に策略によってハダ国主・メンゲブルを撃退させたことで、ナリムブルの目論見はまたもや失敗におわった。(→「富爾佳斉大戦」)
万暦21 (1593) 年9月25日[3]、フルギヤチ戦での敗戦に得心の行かないイェヘ国主ブジャイとナリムブルは、ハダ国主・メンゲブル、ウラ国主・ブジャンタイ、ホイファ国主・バインダリ (以上、フルン四部) の外、蒙古ノン・ホルチン部のウンガダイ、マングス[4]、ミンガン[5]三ベイレ、シベ[6]部、グワルチャ[7]部、更に長白山のジュシェリ[8]路主・ユレンゲ[9]およびネイェン[10]路主・セオウェン[11]とセクシ[12]、これら九部 (九姓之国) を糾合し、計30,000の兵が三隊にわかれて進軍した。
噂を聞いたヌルハチはウリカン[13]に東路経由で偵察に行かせたが、ウリカンはヌルハチ居城から100里隔たった山の嶺で消魂しく鳴き喚く烏の大群に遭遇した。前進を試みれば飛び掛かって来る烏を不思議に思い、急ぎ帰還してヌルハチに報告すると、ヌルハチはジャカ[14]路から渾河へ向かうよう命じた。渾河北岸に着くや一面に瞬く灯火が目に入り、多数の敵兵が露営を張っていた[15]。敵兵は食事を終えると夜闇にまぎれてシャジ[16]嶺を越えていった。
ウリカンが帰還した時にはすでに午前二時[17][18]をすぎていた[19]。ヌルハチは報告を受けると、翌日出発することを各将軍に伝令させて就寝した。妻・グンダイ[20]はヌルハチが恐怖の余り現実逃避を始めたと思い込み[21]揺り起こしたが、ヌルハチは敵の到来が分かれば怖いこともない[22]、とまた寝入ってしまった。
万暦21 (1593) 9月26日の暁、[23]食事を済ませたヌルハチは、ベイレ、大臣らを祖廟に集め、二度礼拝して祈祷した。祈祷を終えると兵を率いてトクソ[24]部落に至った。ヌルハチは機動性を考え、渡し場で兵に命じて頓項 (頸部の防具) と籠手を脱ぎ棄てさせた。[25]
ジャカに到着した一行は、ジャカ城のナイフ[26]、サンタン[27]という二人の守衛から、イェヘ軍の動向に就いて、午前八時頃[28]に到着しジャカ城を包囲したものの攻略できず、ヘジゲ城[29]に標的を易え大挙して進軍していった、と聞かされ、忽ちに色を失った。後から同じくジャカ城のラングタリ[30]という者が現れると、ヌルハチ軍の兵数を尋ね[31]ながら丘に登ってヌルハチ軍の兵を見渡し[32]、勝利を請け負って兵を鼓舞[33]した。ヌルハチは偵察を派遣すると、もし敵兵に撤退の動向があれば、この夜直ちに、然もなくば明朝を期して攻撃をしかけることを指示した。偵察兵が帰還すると、敵兵は正に兵営や防塁を設置し、食糧などを搬入していることが判明した為、ヌルハチも設営を始めた。
この夜、イェヘ軍の兵営から逃走し投降する者が一人あり、ヌルハチにイェヘ軍の動向を密告した。[34]それに拠ると、イェヘ軍で兵10,000、ハダ、ウラ、ホイファの三軍で兵10,000、蒙古ホルチン、シベ、グヮルチャの三軍で兵10,000、合計で兵30,000とわかり、ヌルハチの兵はまたもや色を失った。ヌルハチはそれに対し、烏合の衆は頭を一人二人討ち取れば自然に崩潰すると踏んで、天険に陣を張りそこに誘い込んで奇襲をかけるか、誘いに乗らない場合は四隊にわかれてやおら進軍すれば好いと考え、且つ兵たちには敵の頭目を狙うよう訓示した。
万暦21 (1593) 年9月27日の東雲、ヌルハチ率いる軍が挙兵した。イェヘ軍はヘジゲ城への攻撃を開始していたが、陥落には至っていなかった。イェヘ軍が再度ヘジゲ城に攻撃を開始したところに到着したヌルハチ軍は、ヘジゲ城へ向けてグレの山の天険に陣を張った。ヌルハチは部下にグサ (旗) 兵を率いて隊列を整え、待機するよう指示し、エイドゥ[35]・バートルに兵100をつけて敵の挑発に向わせた。イェヘ軍はエイドゥをみるや城塞攻撃をやめて追撃を始めた。引き込まれたイェヘ軍がヌルハチ軍の迎撃で九人斬伐されると、イェヘ軍は一旦退却した。[36]
イェヘ国のブジャイとギンタイシ、およびホルチン部の三ベイレが連携して攻撃をしかけ、ブジャイがエイドゥの挑発に乗って突入すると、[37]木に躓いた馬が転倒、[38]すかさず兵卒のウタン[39]が飛びかかり、ブジャイに跨り槍で一突き刺殺して首級をあげた。[40]
ブジャイの死に敵兵は慟哭、落胆し、[41]ベイレらは自らの兵も顧みず一目散に逃げ出した。ホルチン部のミンガンはこの時馬が泥濘に嵌り、慌てて鞍を外し、自らも来ていた物を全て脱ぎ去って、真裸で馬に跨り遁走した。[42]頭を失い混乱に陥った敵兵をヌルハチ軍が奇襲し、窪み[43]には敗残兵の死体が累々と重なった。ヌルハチはハダ国チャイハ[44]部落の南、ウェヘユウェン[45]にまで追撃し、夜、縄を張って道を封鎖すると、敗走を図る敵兵を捕らえ、殺戮した。[1][46]この戦役でヌルハチ軍は、首級4,000を挙げ、馬3,000、甲冑1,000を鹵獲した。[47]
古勒山の戦における九部聯合軍の惨敗の結果、建州部と海西諸部の力関係に変化を来し、後の海西諸部滅亡につながった。ヌルハチはこの戦役で名を揚げ、軍威発揚によって遠方も近隣諸国も悉く従属させた。明朝により左都督正二品龍虎将軍に昇級されると、ヌルハチは自ら「女直国建州衛の夷人管束の主」と称した。
万暦21 (1593) 年9月28日、即ち古勒山の戦の翌日、兵卒がとある捕虜を殺そうとしたところ、贖罪の機会をくれと喚く為、ヌルハチの許へ連行した。ヌルハチが誰何すると、捕虜はウラ国主・マンタイの弟・ブジャンタイであると身分を明かした。命乞いをするブジャンタイをヌルハチは恕宥し、稀少な猞狸猻の皮衣を与えて、訓育することにした。ヌルハチはブジャンタイを時機をみてウラ国に返し、次期国主に即位させて、自分の支配下におこうと企図したが、この以降、ブジャンタイは屡々背盟を繰り返し、ヌルハチにより 烏拉国ウラ・グルン は討滅される。
万暦21 (1593) 年11月23日[48]、ヌルハチはグレ山での大勝利の余勢を駆って、九国聯合軍に参与した廉で満州長白山ジュシェリ路に進攻し、討滅した。部主のユレンゲ[49]らが捕縛され、領民ごと移住させられたことで実質的に帰順した。
同年12月23日[50]には、ヌルハチはエイドゥ、ガガイ[51]、安費揚古の三部将に兵1,000をつけ、同じく九国聯合軍に参与したネイェン路の居城であるフォドホ[52]の山城に進攻させた。日毎に攻撃させ、三箇月後の翌万暦22 (1594) 1月に路主・セオウェンとセクシを斬殺した。
更に初期に征服した鴨緑江部、長白山女真を統治圏に組み込むと、ヌルハチは挙兵より10年で、建州部周辺国を全て制圧し、最後に建州各部を統一して、後金を樹立することになる。
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