五木 寛之(いつき ひろゆき、1932年〈昭和7年〉9月30日 - )は、日本の小説家・随筆家。福岡県出身。旧姓は松延(まつのぶ)。日本芸術院会員。
少年期に朝鮮半島から引揚げ、早稲田大学露文科中退。作詞家を経て『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。反体制的な主人公の放浪的な生き方(デラシネ)や現代に生きる青年のニヒリズムを描いて、若者を中心に幅広い層にブームを巻き起こした。その後も『青春の門』をはじめベストセラーを多数発表。1990年代以降は『大河の一滴』など仏教、特に浄土思想に関心を寄せた著作も多い。
1932年、教員の松延信蔵とカシエの長男として福岡県八女郡に生まれる。生後まもなく、日本統治時代の朝鮮に渡り、父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地に移る。少年時代は、父から古典の素読や剣道、詩吟を教えられ、小説や物語を読むことを禁じられたが、友人から借りた山中峯太郎、南洋一郎、坪田譲治、佐々木邦、江戸川乱歩などを隠れて愛読した[1]。第二次世界大戦終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母は死去、父とともに幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる。
引き揚げ後は父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えた。1948年に(旧制)福岡県立八女中学校に入学、ゴーゴリやチェーホフを読み出し、同人誌に参加してユーモア小説を掲載。福岡県立福島高等学校に入学してからはツルゲーネフ、ドストエフスキーなどを読み、テニス部と新聞部に入って創作小説や映画評論を掲載した。1952年に早稲田大学第一文学部露文科に入学。横田瑞穂に教えを受け、ゴーリキーなどを読み漁り、また音楽好きだった両親の影響で、ジャズと流行歌にも興味を持った。生活費にも苦労し、住み込みでの業界紙の配達など様々なアルバイトや売血をして暮らした。『凍河』『現代芸術』などの同人誌に参加し、また詩人の三木卓とも知り合う。1957年に学費未納で早稲田大学を抹籍された(後年、作家として成功後に未納学費を納め、抹籍から中途退学扱いとなる)。また、この頃に父を亡くす。
大学抹籍以降、創芸プロ社でラジオのニュース番組作りなどいくつかの仕事を経て、業界紙『交通ジャーナル』編集長を務めるかたわら、知人の音楽家加藤磐郎の紹介で三木トリローの主宰する三芸社でジングルのヴァース(CMソングの詞部分)の仕事を始める。CMの仕事が忙しくなって新聞の方は退社し、CM音楽の賞であるABC賞を何度か受賞。PR誌編集や、『家の光』『地上』誌などでのルポルタージュやコラムの執筆、テレビ工房に入り放送台本作家としてTBS『みんなで歌おう!』などのテレビやラジオ番組の構成を行う。また野母祐、小川健一と3人で「TVペンクラブ」を立ち上げ、NHKテレビ『歌謡寄席』制作、『うたのえほん』『いいものつくろ』構成などを手がける。大阪労音の依頼で創作ミュージカルを書き、クラウンレコード創立に際して専属作詞家として迎えられ、学校・教育セクションに所属し、童謡や主題歌など約80曲を作詞した。
1965年には、石川県選出の衆議院議員(のち金沢市長)岡良一の娘で、学生時代から交際していた岡玲子と結婚。岡家の親類で跡継ぎがなかった五木姓を名乗る。日本での仕事を片付けて、1965年にかねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を妻とともに旅する。帰国後は精神科医をしていた妻の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて暮らし、小説執筆に取りかかる。
1966年、『さらばモスクワ愚連隊』により第6回小説現代新人賞を受賞。引き続き第55回直木賞候補となった。同作は堀川弘通監督により映画化されるなど、五木の出世作となったが、後述のエッセイ『風に吹かれて』によると登場人物の少年(ミーシャ)はソ連の首都モスクワで出会ったジャズ好きの少年をモデルとしており、作中には「非行少年」を意味するロシア語の「スチリャーガ」という言葉も出てくる。映画化に際してはこうした描写を問題視した駐日ソ連大使館から「ソ連の否定的側面のみを拡大誇張して書かれた反ソ的作品」と強い圧力が加わり、現地ロケも認められなかった。そして五木自身も発表から20年以上、1988年までソ連を再訪することはできなかった[2]。
1966年には馬淵玄三をモデルにした小説『艶歌』も発表。同作は舛田利雄監督により『わが命の唄 艶歌』として映画化されるなど、音楽ジャンル「演歌」の確立に大きくかかわる。
1967年、ソ連作家の小説出版を巡る陰謀劇『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞。同年『週刊読売』に連載されたエッセイ『風に吹かれて』は、刊行後から2001年までの単行本・文庫本の合計で460万部に達した。1967年には若いジャズ・トランペッターの冒険を描いた『青年は荒野をめざす』を『平凡パンチ』に連載し、同名の曲を自身の作詞でザ・フォーク・クルセダーズが歌ってヒットした。1969年には雑誌『週刊現代』で『青春の門』掲載を開始した。
1970年、神奈川県横浜市に移住。テレビ番組『遠くへ行きたい』で永六輔、野坂昭如、伊丹十三らと制作に加わった。
1972年から一度目の休筆に入る。休筆期間中の1973年、金沢市出身の文豪泉鏡花にちなんだ泉鏡花文学賞、泉鏡花記念金沢市民文学賞の設立に関わり、創設以来審査委員を務める。また1973年7月号から12月号まで『面白半分』編集長を務める。
1974年、執筆活動を再開。リチャード・バック『かもめのジョナサン』の翻訳を刊行、ベストセラーとなる。1975年、『日刊ゲンダイ』でエッセイ『流されゆく日々』の連載を開始した。このエッセイは、2023年時点も続く長寿連載となる(2008年に連載8000回の世界最長コラムとしてギネス世界記録に認定、2016年には連載10000回を達成)[注釈 1]。この頃から頸肩腕症候群に悩まされるようになる。1976年、『青春の門・筑豊編』により、第10回吉川英治文学賞を受賞。
1980年、仕事を手伝っていた5歳下の弟を亡くした。その心の痛手から[3]1981年からは再び執筆活動を3年間[3]休止し、京都に移り住み龍谷大学の聴講生となり、仏教と仏教史を学ぶ。蓮如による講の組織になどに関心を持った[4]。以後、蓮如については、講演、エッセイ、戯曲などで盛んに取り上げており、テレビ『NHK人間大学』で語った内容は『蓮如 聖俗具有の人間像』として刊行された。戯曲『蓮如 われ深き淵より』は蓮如五百回忌記念前進座公演で、嵐圭史主演で上演された。
1984年に山岳民の伝説を題材にした『風の王国』で、執筆活動を再開した。1985年に国鉄のキャンペーン「エキゾチックジャパン」をプロデュース[5]。1987年にトルコ、1988年にソ連(ロシア)、東西ベルリン、1990年にポーランド、ソビエト連邦の崩壊後の1992年にロシア再訪など、世界各地を精力的に回る(『世界漂流』による)。ポーランドの民主革命の際には「ワレサはポーランドの蓮如である」と発言して物議をかもした[4]。吉川英治文学賞、坪田譲治文学賞、小説すばる新人賞選考委員なども務め、特に直木賞選考委員は1978年から32年間にわたり務めた。1998年には『大河の一滴』がベストセラーとなり、2001年に同タイトルが映画化されるなど、五木を知らない世代にもその名を知らしめた。2002年、菊池寛賞を受賞。2003年から2年間、全国の100の仏教寺院を巡り『百寺巡礼』を執筆。2004年に仏教伝道文化賞、2009年にはNHK放送文化賞を受賞。2010年には『親鸞』上・下により、第64回毎日出版文化賞特別賞を受賞した。2022年、日本芸術院会員に選出される。
また『面白半分』編集長時代には「日本腰巻文学大賞」を創設している[9]。
初期作品には、朝鮮から引き揚げて福岡、東京、金沢と移り住んだ経歴からくるデラシネの思想が滲む。ジャズをテーマにしたデビュー作『さらばモスクワ愚連隊』『GIブルース』そして長篇『海を見ていたジョニー』などや、演歌の世界を描いた『艶歌』など音楽を題材にしたもの、憧れの地であった北欧を舞台にした『霧のカレリヤ』などがある。これらは『小説現代』『オール読物』などの中間小説誌に発表されたが、五木自身は作品集『さらばモスクワ愚連隊』後記で「自分の作品を、いわゆる中間小説とも大衆文学とも思ってはいない。私は純文学に対応するエンターテインメント、つまり〈読物〉を書いたつもりである。」と述べている。『蒼ざめた馬を見よ』は1966年にアンドレイ・シニャフスキーとユーリ・ダニエルが作品を西側諸国で出版して逮捕された事件に着想を得て、「伝奇小説的なスケールの大きさ」「地理的なスケールをこえて、近来に類を見ない精神宇宙のサスペンス・ドラマ」「詩的で熱っぽく潔癖な文章」(今官一[10])、「人間の、人間に対する差別、人間に対する侮辱、残酷さ、(略)それを描こうとするあなたの文学を読んでいると、ものすごい未来を感じるんだ」(羽仁五郎[11])といった賞賛を得た。
初の週刊誌連載『青年は荒野をめざす』は、ゲーテ『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』をモデルにしたジャズミュージシャンの海外遍歴小説で、連載開始時には「現代のインターナショナルなものと、ナショナルなものの衝突を試みよう」と語っており、また連載終了時に続編を書くつもりでいたが、ついに書かれることはなく、これはインターナショナルなものの核として捉えられていたジャズが、その後の音楽シーンの変化においてアメリカ合衆国の国粋音楽として国家と権力の保護下に置かれるようになったという五木の見解によるとも指摘されている[12]。
金沢時代にスペイン内戦に関心を持ち、1967年から68年にかけて『週刊文春』に連載した『裸の町』から『スペインの墓標』『戒厳令の夜』へと続く、現代史を題材にとった系列がある。また1967年に『スポーツニッポン』に連載した『狼のブルース』はいわゆる事件屋を主人公とする社会派アクション小説で、物語終盤では政治権力に利用されたことを覚った主人公が「テロは敗北者の抵抗だ。だが――」と自問するなど、五木作品にしては珍しく暴力的なものへの志向をうかがわせる異色作[注釈 2]。そのためか、本作は1970年まで書籍化が見送られた。一方、少年期から居住地を転々と変えたことから、非定住、放浪の生活への関心が強く[14]、1968年に5月革命ただ中のフランス首都パリに旅行した時の体験を踏まえた『デラシネの旗』などがある。
こうした硬派な作品群の一方、1967年から68年にかけて地方紙7紙に連載した『恋歌』以後、恋愛小説も精力的に発表。1968年から76年まで足掛け8年に渡って『婦人画報』に連載した『朱鷺の墓』は日露戦争を題材にとったスケールの大きな恋愛小説。また『水中花』『夜明けのタンゴ』『冬のひまわり』『哀しみの女』はネオ・シティロマンと称された。こうした硬軟取り混ぜたアプローチについて、1度目の休筆後、最初の作品となる『凍河』[注釈 3]のあとがきでは「革命だの学問だのが男子一生の仕事であるならば、男と女の惚れたはれたもまた人生の大事業だ。」と記している。
自伝的な作品も多く、『こがね虫たちの夜』(1969年)は学生時代の、同学の友人高杉晋吾、三木卓、川崎彰彦、野川洸らとの生活をモデルにしたもの[15]。また代表作でもある『青春の門』は少年時代に住んだ筑豊を舞台に、独特の「キリクサン」と呼ばれるきびきびした気質を受け継いだ主人公の成長を追うビルドゥングスロマン的な作品で、第八部まで書き継がれる大作となった。
デラシネ(根無し草)を自認する五木ではあるが、金沢への思いはことのほか強いようで、金沢やその近郊を舞台にした作品には『浅の川暮色』(主計町が舞台)、『風花のひと』(尾山町が舞台)、『朱鷺の墓』(卯辰山や東山茶屋街が舞台)、『聖者が街へやってきた』(香林坊や中央公園が舞台)、『小立野刑務所裏』、『金沢望郷歌』などがあり、『内灘夫人』ではかつて学生時代に内灘闘争を経験した女性の生き方を描いている。『恋歌』でも内灘出身の女性が出てくる。
また金沢はかつて尾山御坊(金沢御堂)を拠点に戦われた加賀一向一揆の震源地でもあり、2度目の休筆中にその思想的指導者だった蓮如に興味を持ち、蓮如を主人公とする戯曲『蓮如 われ深き淵より』や小説『蓮如物語』を著した。さらに近年は浄土真宗の宗祖である親鸞の生涯を綴る大河小説『親鸞』3部作を著すなど、当初の現代的な作風からは様変わりした創作活動を繰り広げている。
1979年から80年にかけて、『GORO』誌上で対談+音楽会の「論楽会」を連載。第1回(渋谷)では岡本太郎、ソンコ・マージュらがゲスト、第2回(原宿)では平岡正明、山崎ハコ、藤真利子、第3回(早稲田)、第4回(帯広)、第5回(銀座)、第6回(福岡)で開催され、『五木寛之論楽会 歌いながら夜を往け』として書籍化された。
1999年に『家庭画報』で、塩野七生とのローマでの対談「異邦人対談」を1年間連載。好きな俳優として佐分利信、森雅之、久我美子、ルイ・ジューヴェ、フランソワーズ・アルヌールを挙げている(『おとな二人の午後』)。
作家デビュー前には「のぶひろし」のペンネームで多くのCMソングを作詞し、清酒富久娘、日本盛、日石灯油、花王石鹸、東京トヨペット、レナウン、神戸製鋼などを手がけ、「日本盛はよいお酒」の詞は長く使われた。テレビ工房名義の「日石灯油」は、社名を入れ替え(日石灯油→日石三菱→ENEOS灯油)つつ現在も使われている。
CM以外の詞も手がけた中には、日本石油の野球部応援歌、「国産品愛用の歌」などもある。クラウンレコード時代の作品「そんな朝でした」(高石かつ枝歌)は「ねむの木の子守歌」のB面として発売されてよい売り上げとなった[16]。立原岬のペンネームで「旅の終りに」(冠二郎)等も作詞した。また、五木寛之の名では「青年は荒野をめざす」(ザ・フォーク・クルセダーズ)、「金沢望郷歌」(松原健之)、「愛の水中花」(松坂慶子)などの作詞を手がけている。
数は少ないが作曲も行った作品があり、名義は「作詞・五木寛之、作曲・立原岬」としている。
大黒屋光太夫が日本に持ち帰ったとされる通称「ソフィアの歌」(『北槎聞略』に歌詞のみ記録)を辿る旅だが、五木が触発されて作詞作曲した『ソフィアの子守唄』のロシア語版も番組中で披露されている。ペテルブルクロケ[注釈 7]。ロイヤルナイツの山下健二が同行・共演。全90分(CM含む)。第30回(1992年度)ギャラクシー賞奨励賞受賞[22]。