中村 真一郎(なかむら しんいちろう、1918年(大正7年)3月5日[1][2] - 1997年(平成9年)12月25日[2])は、日本の小説家・文芸評論家・詩人。旧字体の「眞一郎」名義での出版もある[注釈 1]。
加藤周一らと共に「マチネ・ポエティク」を結成し、共著の時評『1946・文学的考察』で注目される。『死の影の下に』(1947年)で戦後派作家の地位を確立。ほかの作品に『四季』4部作(1975~84年)など。
東京府東京市日本橋区箱崎町(現:東京都中央区)にて生まれる[3][1]。幼くして母を失い、幼少期は静岡県森町の母方の祖父母の元で育った。東京開成中学校に入学し、終生の文学的盟友であった福永武彦と知り合う。中学時代に父を亡くし、篤志家の援助もあって第一高等学校に進学する[1]。高校時代に加藤周一と知り合う。高校時代のエピソードとして、加藤たちが横光利一を一高に呼んだときに横光を怒らせて、帽子を忘れて帰ったのを中村が届けに行ったという話がある。
東京帝国大学の仏文科に進学。卒業論文はネルヴァルを選ぶ。在学時に堀辰雄の知遇を得て、終生師事した。プルーストと『源氏物語』という、中村の二大文学的源泉への関心はこの時代に育まれた。この頃、作家の芹沢光治良にも、作家としての矜持のありかたについての示唆をうけている[注釈 2]。
早くから創作を志し、在学中には劇詩の習作も試みた。福永・加藤たちと共に「マチネ・ポエティク」のグループを作り、押韻定型詩の可能性を追求した。戦後彼らの試みは詩壇から白眼視されたが、中村は最晩年までその試みを続けた。また、ネルヴァルの翻訳もこの時期に公にしたために、戦時中は外国文学紹介の分野で日本文学報国会の会員という扱いを受けている。
小説家としての出発は、戦時中に書いていた作品の公表から始まった。戦時下を生きた一人の知識人の生涯をたどった『死の影の下に』から始まる長編五部作は、中村を戦後文学の旗手の一人として認知させることになった[1]。また、加藤・福永との共著『1946 文学的考察』では、ヨーロッパの文学への造詣の深さを印象づけた。真善美社の出版した、新進作家の作品集に「アプレゲール叢書」と名づけたのも中村であり、「アプレ」が戦後の流行語となった一因でもある。
当時の中村の作品は、戦前の理想と戦後の現実の中に翻弄される知識人の群像を描いた『回転木馬』に代表されるような、現実の日本社会の中での知識人の役割を追求したものが多かった。しかし、1957年に妻の元文学座女優・新田瑛子が幼い娘を残して世田谷区の自宅で睡眠薬自殺をしたことをきっかけにして、精神を病み、電気ショックの療法[4]を受けて、過去の記憶を部分的に失い、その予後として、江戸時代の漢詩を読むようになってから、今までの西洋の文学に加えて、漢文学の要素が作品に加わっていくようになった。香港出身の女優との交流と江戸初期の詩人との感応を描いた『雲のゆき来』、菅原道真の漢詩を現代語にしながらあえて無国籍の詩人のように対象化した『遠隔感応』、外国の都市のなかでの精神のありかを探った『孤独』などが、1960年代の彼の主要な仕事となっていく。さらに、60年代から70年代前半にかけ、『源氏物語の世界』『王朝文学論』『建礼門院右京大夫』『日本古典にみる性と愛』などの古典評論も刊行した。
この時期に、いくつかの分野にわたって「余技」ともいえる著述があり、一つに海外推理小説についての言及で、福永武彦・丸谷才一との共著『深夜の散歩』という形で結実し、海外推理小説に対する日本の読者の知識を増加させた。また、福永・堀田善衛とともに映画『モスラ』の原作として「発光妖精とモスラ」[注釈 3]という作品を合作[2]。ただし原作料は、わずかしか払われなかったと回顧している[要出典]。
「余技」のレベルをはるかに超えていたのが、ラジオドラマの脚本で、単なる声による演技の再現というレベルを超えて、音による風景描写ともいえる深みを出すことに成功し、安部公房などの後の世代のみならず、ヨーロッパの放送局にも影響を与えた。
1970年代以降は、江戸時代後期の漢文学への造詣を基盤にした評伝『頼山陽とその時代』(中央公論社)を刊行をはじめ、近世日本漢文学史の見直しのきっかけを作る。その後も著述を続け、『蠣崎波響の生涯』(読売文学賞受賞)、遺作となった『木村蒹葭堂のサロン』の浩瀚な評伝を著した(各・新潮社)、類書に『詩人の庭』(列伝集、集英社)、『江戸漢詩』(岩波書店)がある。
長編小説では、作者と経歴のよく似た作家を話者として、『四季』四部作(1975年-1984年、新潮社)で日本文学大賞。全体小説の一つの形を作り上げた。短編では「人間精神の諸領域の探求」というカテゴリーで、多様な題材に挑戦執筆した。
『四季』完結後は、再び王朝文学から始まる日本文学史全体を視野に入れた発言が多くなり、『色好みの構造』『王朝物語』『再読日本近代文学』などの文学史的視野をもった著作や『愛と美と文学』『全ての人は過ぎて行く 私の履歴書ほか』『火の山の物語』『私のフランス』など回想記に類する文章が多くなった。晩年に『中村真一郎小説集成』(全13巻、新潮社)を、他に筑摩書房でエッセー集を、新潮社で書評集・評伝などを多数刊行した。
最晩年には、性愛の意味を文学的に探っていった。新潮社で『女体幻想』を、中央公論社『四重奏』四部作を、集英社で遺作となった『老木に花の』を刊行、最後まで創作意欲を持続し、現役作家として生涯を全うした。
中村が最後まで関心を持ち続けたのが、小説の方法であった。欧米の「20世紀小説」と呼ばれた文学動向に関心を持ち、自らの作品の文体表現にまで生かすことを終生の課題とした。その点で、大衆的な人気の出るベストセラー作家とはいえないが、文学の形式と内容に関心をもつ読者には、無視できない存在であったといえよう。
1997年12月25日夕方、加藤周一らと会食中に急性呼吸不全で倒れ、午後11時5分に帰らぬ人となった(享年79歳)[5]。
2006年より、中村真一郎の会が設立され、毎年一冊『中村真一郎手帖』を水声社で刊行している。また、軽井沢高原文庫に文学碑がある。
妻として、女優の新田瑛子。新田との間に長女(カトリックの修道女となる)。新田の没後、詩人の佐岐えりぬと再婚。