世界平和アピール七人委員会

世界平和アピール七人委員会(せかいへいわアピールしちにんいいんかい)は、知識人による平和問題に関する意見表明のための会である。略称は七人委員会(しちにんいいんかい)。

概説

1955年11月11日平凡社社長・下中弥三郎の提唱によって結成された。結成時の委員は下中弥三郎・植村環茅誠司上代たの平塚らいてう前田多門湯川秀樹である。

2021年3月13日、武者小路公秀が病気のため辞任。2022年現在の委員は大石芳野小沼通二池内了髙村薫池辺晋一郎島薗進の6人である[1]

七人委員会に加わる条件は、

  1. 実際の政治にタッチしていない人(政治家でないこと)
  2. 自由人で民主主義陣営の人
  3. 世界的に平和運動を行い得る人

の3つである。

会の名称からわかるように委員の定員は7人で、死去や退任等により欠員が生じ、新規加入や幾度かの入れ替えを経てきた。1996年から8年間は活動を停止していたが、2004年に活動を再開。活動停止時期の委員で、再開時に生存していたのが伏見康治(没時まで名誉委員)、平山郁夫の2人のみだったので新たに委員を補充した。

歴代委員

七人委員会の結成の提唱者下中弥三郎は、自らが中心となって委員の人選も進めた。当初は下中・茅・上代・平塚・湯川・大内兵衛有田八郎の7人を委員会のメンバーとする予定だったが、大内・有田が固辞したため、大内・有田の代わりに植村・前田に委員に加わることを懇請し、植村・前田から承諾が得られ、ここに委員7人の顔ぶれが決定した。事務局長には日高一輝が就任した。以下は委員の変遷である。

世界平和アピール七人委員会の歴代委員
年月 委員 備考
1955年11月 茅誠司 植村環 上代たの 湯川秀樹 平塚らいてう 前田多門 下中弥三郎 結成時の委員
1961年2月 (欠員) 提唱者の下中が死去
1962年6月 (欠員) 前田が死去
1962年10月 川端康成 川端が参加
1969年2月 朝永振一郎 朝永が参加
1971年4月 (欠員) 平塚が死去
1972年4月 (欠員) 川端が死去
1973年4月 大河内一男 大河内が参加
1978年10月 田畑茂二郎 田畑が参加
1979年7月 (欠員) 朝永が死去
1981年9月 (欠員) 湯川が死去
1982年4月 (欠員) 上代が死去
1982年5月 井上靖 伏見康治 植村が死去、井上・伏見が参加
1983年7月 (欠員) 伏見が参議院議員に当選したため辞任
1984年7月 関屋綾子 桑原武夫 関屋と桑原が参加
1984年8月 (欠員) 大河内が死去
1987年11月 隅谷三喜男 内山尚三 隅谷と内山が参加
1988年4月 (欠員) 桑原が死去
1988年11月 (欠員) 茅(最後の結成時メンバー)が死去
1989年12月 久保亮五 久保が参加
1991年1月 (欠員) 井上が死去
1992年5月 平山郁夫 平山が参加
1995年3月 (欠員) 久保が死去
1995年8月 伏見康治 伏見が政界を引退し、再び参加
1996年9月 永井道雄 永井が参加、以後活動停止
2000年3月 (欠員) 永井が死去
2001年3月 (欠員) 田畑が死去
2002年10月 (欠員) 関屋が死去
2002年12月 (欠員) 内山が死去
2003年2月 (欠員) 隅谷が死去
2004年4月 武者小路公秀 大石芳野 土山秀夫 池田香代子 井上ひさし 武者小路・土山・大石・井上・池田を加え、活動再開
2005年4月 小柴昌俊 平山が辞任、小柴が参加
2006年6月 小沼通二 小柴が辞任(多忙のため)、小沼が参加(事務局長兼任)
2007年 池内了 伏見が名誉委員となり、池内が参加
2008年5月 名誉委員の伏見が死去
2010年4月 (欠員) 井上が死去
2010年9月 辻井喬 辻井が参加
2013年11月 (欠員) 辻井が死去
2014年 髙村薫 池辺晋一郎 池田が辞任、髙村・池辺が参加
2017年7月 島薗進 土山が名誉委員となり、島薗が参加
2017年8月 名誉委員の土山が死去

歴代事務局長

脚注

  1. ^ 武者小路公秀委員の辞任のお知らせ”. 世界平和アピール七人委員会 (2021年4月20日). 2022年9月5日閲覧。

関連項目

外部リンク