下関市体育館

下関市体育館
側面から
施設情報
用途 多目的体育館
設計者 坪井善勝今泉善一(協力)[1]
施工 大成建設[1]
建築主 下関市
事業主体 下関市
管理運営 下関公営施設管理公社
構造形式 RC造S造[1]
建築面積 4,995 m2[1]
延床面積 6,874 m2[1]
階数 地上5階
着工 1962年9月
竣工 1963年9月1日
所在地 750-0041
山口県下関市向洋町一丁目12-1
位置 北緯33度58分2秒 東経130度55分53秒 / 北緯33.96722度 東経130.93139度 / 33.96722; 130.93139 (下関市体育館)座標: 北緯33度58分2秒 東経130度55分53秒 / 北緯33.96722度 東経130.93139度 / 33.96722; 130.93139 (下関市体育館)
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下関市体育館(しものせきしたいいくかん)は、山口県下関市向洋町の下関運動公園内にあった体育館[2]

2024年令和6年)7月末で閉館した[3]

概要

下関市体育館(正面)

第18回国民体育大会の開催を契機として、下関市営球場下関市営下関陸上競技場のあった下関運動公園内に1963年昭和38年)9月1日に開設された[2](工期は1962年9月から1963年8月)[4]鉄筋コンクリート造5階建てで、競技場、練習室、談話室(和洋2室)などがあった[2]。競技場の面積は1,932 m242 m×46 m)で、客席数は1,264席、バレーボール3面、バスケットボール2面、バドミントン10面、ハンドボール1面の大きさだった[2]

丹下健三と協働したことで知られる構造家坪井善勝が単独で設計した唯一の作品と言われており、市から坪井に示された設計条件は「文献にもない新しい構造形式をとること」だったという[5]。舞台設計には今泉善一が協力している[1]ほか、坪井に師事した斎藤公男が設計・工事監理を手がけているという[4]

3つの屋根面は細長い二等辺三角形の上部屋根と2枚の側面屋根から成っており[5][4]、2つの側面屋根は前面の傾斜した2本の柱から一つの数式で表現できる変形双曲放物面を描きながら[4]、背面で逆反りとなって終わるという特徴的な外観を持つ[5]。このような曲面を持つ屋根としたため、屋根材は30cm角のアルミ板で葺かれている[5]。前部はスパン43 m、高さ28 mの合掌登り梁、背面はスパン43 m、高さ14 mの矩形ラーメン構造で支持している[4]

老朽化に加え、1981年に改正された建築基準法の新耐震基準に対応するのが難しいことから、下関市は隣接地に新体育館(下関市総合体育館)を整備することになり、同体育館の竣工により2024年(令和6年)7月末で閉館した[3]。今後解体・撤去後、駐車場に転用される予定となっている[4][6]

挿話

脚注

  1. ^ a b c d e f 下関市立体育館について”. 山口近代建築研究会 (2019年9月23日). 2024年8月10日閲覧。
  2. ^ a b c d 下関市新総合体育館整備事業実施方針”. 下関市 (2020年6月). 2024年8月5日閲覧。
  3. ^ a b c 下関市体育館閉館「原点の地 さみしい」猪木さんと出会った運命の場所 藤波辰爾選手が思い出語る/山口”. 毎日新聞 (2024年8月2日). 2024年8月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 構造家・斎藤公男先生と巡る下関市体育館見学会”. 日本建築学会中国支部. 2024年8月5日閲覧。
  5. ^ a b c d JAPANESE MODERN ARCHITECTURE 55 山口 042 下関市体育館”. Casa BRUTUS. 2021年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月10日閲覧。
  6. ^ 仮設~本設駐車場の詳細”. J:COMアリーナ下関(下関市総合体育館). 2024年8月24日閲覧。
  7. ^ 松岡健治 (2021年5月11日). “藤波辰爾に起こった試合直前の流血事件。アントニオ猪木はあえてドラゴンを殴った”. Sportiva. 2024年8月24日閲覧。

関連項目