レンバーグ(Lemberg、1907年 - 1928年)はイギリスの競走馬及び種牡馬である。
セントレジャーステークス優勝馬バヤルドの半弟であり、1910年のダービーステークスで優勝し、種牡馬としても英愛リーディングサイアーに輝いた。
出自
レンバーグはMr. Fairieという名義で所有馬を走らせていたアルフレッド・W・コックス(英語版)によって生産された。
父サイリーンはアスコットゴールドカップ優勝馬であり、種牡馬としてレンバーグのほかにミノル、タガリー(英語版)、キケロ(英語版)と3頭のダービー馬や6度の英愛リーディングサイアーに輝いたポリメラスなどを出した。
ガロピン産駒の母ガリカは、レンバーグを産む前年にセントレジャーステークス優勝など25戦22勝で種牡馬としてゲイクルセイダーとゲインズバラの2頭の三冠馬の父となったバヤルド、1913年には1916年のダービー2着馬Kwang-Suなどを産んでいる。
レンバーグはクラシックレース16勝のアレック・テイラー・ジュニア(英語版)のもとで調教された。
競走成績
2歳時(1909年)
プライベートトライアルの後にロイヤルアスコット競馬場のニューステークスに出走したレンバーグは2着馬に1馬身半差をつけて優勝した。
ニューマーケット競馬場のチェスターフィールドステークスにも優勝したレンバーグであったが、グッドウッド競馬場のルースメモリアルステークスではニールゴウ(英語版)の3着に敗れた。
秋には調子を戻しニューマーケットでのルースメモリアルステークス(5f)では牝馬Yellow Slaveに首差をつけて優勝し、ミドルパークステークスでは後のアメリカチャンピオンであるウィスクブルームに首差で勝利し、デューハーストステークスでも同馬に5馬身差をつけて優勝した。
3歳時(1910年)
レンバーグの3歳初戦は2000ギニーとなった。シーズン前には騎手ダニエル・マハー(英語版)を巡りライバルであるニールゴウと競合していたが、マハーはニールゴウを選んだため、バーナード・ディロン(英語版)が騎乗することになった。レンバーグは最高のレースをしたニールゴウに短頭差及ばなかったが、レンバーグはステイヤーだと考えられていたので、距離が伸びるダービーではさらに期待がかけられた。
ディロン騎乗でダービーに出走したレンバーグは先頭のセントフラスキン産駒グリーンバック (Greenback) を終始追いかけて、ゴール前で追い抜くと首差をつけて2分35秒2のレコードタイムで優勝した。ニールゴウは落ち着きがなくスタートに失敗して4着に終わった。
ダービー後はロイヤルアスコット競馬場のセントジェームズパレスステークスに出走したレンバーグは3馬身差をつけて優勝。その後はパリ大賞に遠征し、先行したものの、重い馬場で体力を消耗したのか4着に敗れた。
7月にはサンダウン競馬場のエクリプスステークスで再びニールゴウと顔を合わせ、デッドヒートの末レンバーグが勝利した。
秋にはセントレジャーステークスに出走したレンバーグではあったが、調教不足のせいかダービーとセントジェームズパレスステークスで破っていたスウィンフォードの3着に敗れた。
その後は体調が戻るとジョッキークラブステークス、チャンピオンステークスなどに優勝した。
4歳時(1911年)
6月にエプソム競馬場のコロネーションカップに出走したレンバーグはセントレジャーステークスで敗れた5連勝中のスウィンフォードに雪辱し、3⁄4馬身差をつけて優勝した。
7月のプリンセスオブウェールズステークス(英語版)でも人気になったレンバーグであったが、5ポンド差が響いたのかスウィンフォードに1馬身半差をつけられて敗れた。
エクリプスステークスではスウィンフォードと同斤量となったレンバーグだが、さらに良化したスウィンフォードに敵わず4、5馬身差をつけられて連敗した。
その後、レンバーグは秋にドンカスターカップ優勝、ジョッキークラブステークス2着、単走でのチャンピオンステークス連覇などの成績を残し引退した。
種牡馬成績
引退後はニューマーケットのハミルトンスタッドで種牡馬となり、1922年の英愛リーディングサイアーに輝いた。
おもな産駒
血統表
出典
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
レンバーグに関連するカテゴリがあります。