ルーベン・ウッド

ルーベン・ウッド
Reuben Wood
第21代 オハイオ州知事
任期
1850年12月12日 – 1853年7月13日
副知事未設置
ウィリアム・メディル
前任者シーバリー・フォード
後任者ウィリアム・メディル
オハイオ州最高裁判所判事英語版
任期
1833年2月6日 – 1847年2月
前任者ピーター・ヒッチコック英語版
後任者エドワード・エイヴリー英語版
オハイオ州上院議員
カヤホガ郡など選出
任期
1825年12月5日 – 1830年12月5日
前任者ジャベツ・ライト
サミュエル・ウィーラー
アーロン・ノートン
後任者ジョン・W・ウィリー
個人情報
生誕1792年 or 1793年
アメリカ合衆国 バーモント州ミドルタウン・スプリングス英語版
死没 (71–72歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オハイオ州クリーブラン
墓地ウッドランド墓地
政党民主党
配偶者メアリー・ライス
子供ロレッタ・ウッド
メアリー・ウッド
署名

ルーベン・ウッドReuben Wood1792年または1793年 - 1864年10月1日)は、アメリカ合衆国オハイオ州民主党の政治家。第21代オハイオ州知事

ウッドはバーモント州ラトランド郡ミドルタウン近くで生まれた。カナダでおじと暮らしている間、ウッドは米英戦争初めにカナダ軍へと徴兵されるが、オンタリオ湖を越えて逃亡し一時アメリカ軍に入る。1816年に妻や幼い娘とともにオハイオ州クリーブランド(当時は600人程の小さな村)に移った。弁護士として働くため、僅か1ドル25セントだけ持ってたどり着いたとも言われる。ウッドはオハイオ州上院議員を1825年から1830年まで務める。1832年にオハイオ州最高裁判所の判事に選ばれ、1833年から1847年まで1期7年2期分を務める。3期目はホイッグ党の候補者に阻まれた。ウッドは1850年後半にオハイオ州知事に就任。最初の任期は新しい州憲法の履行によって途切れ、1851年後半に再選され、1852年前半に再就任。1853年7月13日、チリバルパライソ駐在アメリカ領事となるために辞職。クリーブランドへと退く1855年までその地位に留まった。

外部リンク

先代
シーバリー・フォード
オハイオ州知事
1850年 - 1853年
次代
ウィリアム・メディル