ベニート・ムッソリーニによるファシスト政権下でのダッラピッコラの幼少期の経験は、彼の後の人生の展望や作品を特徴づけたといえるだろう。彼は一度プロパガンダを信用してムッソリーニを援助したことがあり、1930年代になって初めて、第二次エチオピア戦争やスペイン内戦へのイタリアの介入に反対する政治的視点を熱烈にもつようになった。ムッソリーニがアドルフ・ヒトラーの人種観に賛同したことはダッラピッコラのユダヤ人の妻ラウラ・ルッツァートにとって脅威となり、彼の考えはより強固なものとなった。『囚われ人の歌 Canti di prigionia』(1938-41)とオペラ『囚われ人 Il prigioniero』(1944-48)は、この激しい悩みを反映した作品で、前者はダッラピッコラ最初の本格的なプロテスト作品である。
ダッラピッコラの作品には、彼の規範によって生み出され、採用された十二音技法が広く用いられている。彼は実際、その技法を用いて作曲をした最初のイタリア人であり、イタリアで最初の支持者であり、より叙情的・調的なスタイルを可能とするセリー音楽の技法を発展させた人物である。1930年代を通してダッラピッコラのスタイルは、突発的な半音階を含む全音階スタイルから、意識的なセリー音楽の様相へと発展した。彼は十二音列を主旋律の要素として用いることから始め、やがては自分の作品を完全にセリー音楽として構築するようになった。セリー音楽を用いることで彼は、多くの新ウィーン楽派批判者が近代の十二音音楽に欠落していると言ったメロディーラインを失うことがなかった。彼のムッソリーニ支配に対する幻滅が、彼の音楽性を変化させた。第二次エチオピア戦争の後、彼は自分の作品がもはやかつてのように軽快で楽しい作品ではあり得ないと述べている。その後にも『ミュリエル・クーヴルーのための小協奏曲 Piccolo concerto per Muriel Couvreux per pianoforte e orchestra』などの例外はあるものの、このことは大部分において事実であった。
3つの政治的声楽作品『囚われ人の歌』、『囚われ人』、『解放の歌 Canti di liberazione』は三部作を構成している(ただし、最初の2作品と3作目との時間・様式的な隔たりのため、まとまりがあるとは言い難い)。オデュッセイアをもとにした彼のオリジナル脚本である『ウリッセ』は、彼の生涯の作品中での最高潮である。この作品は8年以上かけて作曲され、彼の初期作品のテーマがより発展された形で含まれており、そしてこの作品がダッラピッコラ最後の主要な作品となったのである。
主な作品
3つのピアノフォルテのための音楽 Musica per tre pianoforti (1935年)
3つの賛歌 Tre laudi (1936-7年)
夜間飛行 Volo di Notte (1938年)
囚われ人の歌 Canti di prigionia (1938-41年)
ミュリエル・クーヴルーのための小協奏曲 Piccolo concerto per Muriel Couvreux per pianoforte e orchestra (1939-41年)
ギリシャ抒情詩 Liriche Greche (1942-5年)
マルシア Marsia (1943年)
囚われ人 Il prigionero (1944-8年)
アントニオ・マカードの4つの抒情詩 Quattro liriche di Antonio Machado (1948年)