ライナー・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ (Rainer Prinz von Sachsen-Coburg und Gotha , 1900年 5月4日 - 1945年 3月25日 ?)は、オーストリア の軍人。ザクセン=コーブルク公爵家 のカトリック系分家コハーリ侯爵家 の公子。
生涯
両親と3人の兄姉に囲まれた誕生間もないライナー、1900年
ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アウグスト・レオポルト とその妻のハプスブルク=トスカーナ家 のオーストリア大公女カロリーネ の間の第4子、次男としてオーストリア=ハンガリー帝国 のプーラ (現在のクロアチア )で生まれた。正式な洗礼名はライナー・マリア・ヨーゼフ・フローリアン・イグナティウス・ミヒャエル・ガブリエル・ラファエル・ゴンツァーガ(Rainer Maria Joseph Florian Ignatius Michael Gabriel Raphael Gonzaga )である。
1916年以降、父とともにハンガリーで最も裕福な地主貴族の1つコハーリ侯家の家督を継ぐことが予定されていた。ところがオーストリア=ハンガリー帝国崩壊後の1921年に死去した大伯父のコハーリ侯フィリップ は、遺言でライナーの1歳年下の弟フィリップ・ヨシアス を長子相続財産の相続者と定めたため、ライナーは家督を継ぐことができなかった。
1930年9月20日、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党) ・シュタイアーマルク州 支部で入党手続きを行い、同党の30万354番目の党員となった[ 1] 。弟エルンスト(1907年 - 1978年)、妹レオポルディーネ(1905年 - 1978年)も同党に入党している[ 2] 。
1945年3月25日以降、ブダペスト 郊外ジェムレーで戦死したと推定されている。1961年5月19日にミュンヘン簡易裁判所 (ドイツ語版 ) の出した法的死亡宣告によれば、死亡日は1945年12月31日である[ 3] 。
子孫
1930年12月15日にミュンヘン で、ヨハンナ・カーロイ・デ・カーロイ=パティ(1906年 - 1992年)と結婚し1935年に離婚。1940年2月13日にブダペストで、エーディト・デ・コージョル(1913年 - 1997年)と再婚した。最初の妻との間に息子が1人ある。
ヨハネス・ハインリヒ ・フリードリヒ・ヴェルナー・コンラート・ライナー・マリア(1931年 - 2010年) - 1957年男爵令嬢マリー・ガブリエーレ・フォン・フュルステンベルクと結婚(1968年離婚)し一女をもうける。1968年ザクセン王女マティルデ[ 注釈 1] と再婚(1993年離婚)し一男をもうける。
フェリーツィタス ・フランツィスカ・ヨハンナ・マリア・ガブリエラ・エリーザベト・パウリーネ・ヘレーネ・シュテファニー・レオポルディーネ・アレクサンドラ・ゾフィー・マティルデ・ヨーゼファ・アンナ・カロリーネ・インマクラータ・エマヌエラ(1958年 - ) - セルゲイ・トロツキーと結婚
ヨハネス ・アルベルト・レオポルト・フリードリヒ・クリスティアン(1969年 - 1987年) - 母方伯父のマイセン辺境伯マリア・エマヌエル から旧ザクセン王家次期家長に指名されたが、18歳でスキー事故死。
1944年の弟フィリップ・ヨシアスの婚姻は家内法により貴賤結婚 と見なされたため、コハーリ侯家の家督はライナーの子孫に戻ったと考えられていた。2010年、ライナーの息子ヨハネス・ハインリヒが死去すると、コハーリ侯の称号を名乗る資格は分家筋の元ブルガリア王シメオン2世 に渡った。2012年、シメオン2世は姉マリヤ・ルイザ にコハーリ侯位を譲った。
脚注
注釈
出典
参考文献
Ernst Klee: Das Kulturlexikon zum Dritten Reich. Wer war was vor und nach 1945 . S. Fischer, Frankfurt am Main 2007, ISBN 978-3-10-039326-5 .
外部リンク